2015年9月27日日曜日

エペソ人への手紙4章16節「愛のうちに建てられ~交わりへの招き~」


誰も孤島ではなく、誰も一人ですべてではない。」これはイギリス国教会で奉仕していたジョン・ダンと言う人の祈りの一部ですが、人間は一人では生きられないこと、多くの人に支えられて生きていることを教えることばとして有名です。

日本語の人という文字も、二人の人がお互いを支え合っている姿をあらわすものとよく言われます。尤もこれは俗説で、人が両手をぶら下げて立っている形からできた文字と言うのが本当だとも言われます。

その真偽は兎も角として、そうした説が一般的になる程、人生において人との交わりが大切なものであることを多くの人が感じていることが分かります。よく行われる「生きがいについてのアンケート」でも、子どもがいること、家族との団らん、人の役に立つこと、喜んでもらえること、他人の温かさを感じること等、良い人間関係の中に生きがいを見出す人の多いことに驚かされます。

そして、これらの事実は、聖書の真理が今もなお人々の心の中に深く刻まれていることを示しているように思われるのです。神様は最初の人アダムを創造した時、「人がひとりでいるのは良くない」と考え、助け手としてエバを造りました。私たち人間は、最初から交わりの中に生きる者として創造された存在なのです。

人間は他の動物に比べ、自立するのに長い時間がかかると言うのも、よく知られた事実です。動物の中でも早いものは、親に数日から一週間育てられただけで、家族を離れ、自分で餌を取り自立して生活できるようになりますが、私たち人間の場合は自立するまで約20年。人間が人間として成長、自立するためには長い間家族を中心とした交わりが必要であることが分かります。

 人となられた神、イエス・キリストも人々との交わりの中に生きました。イエス・キリストの生涯と言うと、私たちは十字架の死に目を向けがちです。勿論、イエス様の十字架の死は人類の罪を贖うという重大な意味を持っていますが、聖書は一人の人間としてイエス様がどのように歩まれたのか。そのことに多くのページを割いています。

 イエス様は人々ともに会堂で礼拝をし、食事を楽しみ、病の人のいる家を訪問し、親戚の結婚を祝い、弟子たちと旅をしました。愛する弟子ラザロが死んだ時には、人々ともに涙しました。喉の渇きを覚えると、サマリヤの女に水を求め、活動に疲れた時は親しい友マルタとマリヤの家で休息し、十字架の死を前に恐れ悩んだ際は、信頼する弟子たちに祈りの援助を求めました。

 天の父と交わるのと同じぐらい、人々と交わることを、イエス様は大切にされたのです。ある時は人々を癒し、助け、ある時は人々に癒され、助けてもらう。その様な人々との交わりの中で生きること。それが人間らしい生き方であることをイエス様は教えてくれているのではないかと思います。

 しかし、神様から心離れて生きる人間は、イエス様のように愛をもって人々と交わることができなくなってしまいました。神様の愛を心に受け取ることのできない人間は、心を閉ざして孤立するか、交わりを求めても、どちらかが支配的で、どちらかが支配されて不自由と言う様な、歪んだ交わりが多くなってしまったのです。夫婦、親子、地域、職場、学校。今様々な分野での人間の交わりの歪みは益々酷くなっている、崩壊しつつあると言われます。

 しかし、その様な世界のために、神様が建ててくださったものがあります。それが、イエス・キリストを主とし、かしらとする教会です。聖書は教会のことを様々なことばで表現していますが、その一つが「キリストの体」でした。神様は、イエス様が示された本来の人間同士の交わりをこの世界に広げてゆくため、教会を建てられたのです。

 

 エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

 

 「体全体は、一つ一つの部分が…」とある様に、聖書は、クリスチャンとして生きるとは、キリストの体の一部として生きることと教えています。皆様は、このことを自覚しているでしょうか。体の一部、一つの器官として生きるとは、すべての兄弟姉妹が大切な存在であると認めること、私たちはお互いに助け合う交わりの中にあって、はじめて自分らしい生き方や働きができる存在であることを意味しています。

 果たして、私たちは四日市教会に集められたすべての人々を大切な存在と認めているでしょうか。互いに成長するために必要な存在として、神様が与えてくださった兄弟姉妹、心からそう思っているでしょうか。

 これを分かっていなかったのがコリントの教会で、彼らの間には分裂や差別、優越感を抱く人と劣等感を持つ者の間に争いが絶えなかったのです。特にコリントの人々は賜物を重視し、賜物の違い、能力の大小で、自分や相手の存在価値を考える傾向がありました。しかし、それは神様の見方とは違います。神様は賜物の違いや大小で人の価値を判断するお方ではありません。それらに関係なく、すべての人の存在が、神様にとっては大切で、かけがえのない者なのです。

 賜物の違い、大小は比べることではなく、役割の違いであって、私たちの存在価値の大小ではありません。むしろ、賜物を多く与えられている人ほど、多くの人に支えられ、助けられていると思われます。例えば、体の器官の中で心臓ほど重要な器官はないと言えるかもしれません。他の器官よりも価値があるように見えます。しかし、血管を始めとして、心臓ほど他の多くの器官に助けてもらわないと正常に働けない器官はないとも言われます。

 私たちは、キリストの体の一部として、神様の目線で自分と他の人の価値、存在の大切さを考える者になりたいと思うのです。

 また、この世は自立と言うことを強調しています。この世の言う自立とは、何でも自分ですること、何でもできる者、ひとりで生きてゆける者となることが理想とされているように思われます。ともすると、私たちも何でも奉仕を引き受ける人、弱音を吐かず、毎週礼拝に出席し、献金も怠らない、その様な人を理想のクリスチャン、自立したクリスチャンと考えがちではないでしょうか。

 しかし、聖書が教える自立したクリスチャンとは、この世の言う自立とは違っています。体の一部として生きるとは、自分が神様から与えられた賜物、自分ができることを考え、それに取り組む一方、自分の限界や弱さをわきまえ、できないことには「ノー」を言える自由とそれを他の人に依頼する謙虚さをもつこと、その様な兄弟姉妹との関係を築くことと教えられます。

 そして、この様な考え方をもとに交わりを持つ時、その交わりの中で、私たちはお互いに成長できると、聖書は語っています。「備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長する」とある通りです。

 私たちは、家庭、地域、職場などでイエス様の弟子として働く責任が与えられています。その責任を果たす中で、悩み苦しむことがあり、傷つくこともあるでしょう。疲れ果てることもあると思います。

 私たちの傷つき、疲れ果てた心は、礼拝において語られる神様のみことばによって励まされ、整えられます。その為に、神様は私たちを礼拝に招いておられるのです。しかし、それと同じく、いやそれ以上に私たちの心を励まし、整えてくれる助けがあります。兄弟姉妹との交わりの中で、悩み苦しみを分かち合うことです。

 皆様は、兄弟姉妹との交わりの中で受けたアドバイスや祈り、あるいは何もアドバイスはなくとも、自分の話を真剣に聞いて貰えたことで助けられた、心が軽くなったと言う経験はないでしょうか。私たちの心は、私たちの痛みを自分のこととして受けとめてくれる交わり、批判される心配の無い安心できる交わりの中で癒され、回復してゆくことができるのです。

 教会がキリストの体と言うのは、私たちがお互いに切っても切り離せない関わりの中にあると言うことです。私たちが第三者になるのではなく、同じ体の一部になっていることを認め、助け合い、支え合ってゆくことです。

 しかし、一方、教会は「罪赦された罪人の集まり」とも呼ばれます。誤解したり、誤解されたり、傷つけたり、傷つけられたりと言う現実がありますし、できるかぎり注意していても、この様な問題はどんな教会でも避けられないと思います。

むしろ、問題が起きた時こそ、かしらなるイエス・キリストの前に出て自分を見つめることで、これを成長のチャンスと変えることができるのではないでしょうか。人を傷つけてしまった者は、自分の高慢さや人をさばきやすい性質に気がつき、心から相手に謝罪する謙遜さを身につけることができるでしょう。

傷つけられた者も自分の弱さに気がつき、そのことを通してイエス様との交わりに向かい、より深く主を信頼する機会とすることができると思います。あるいは、信頼できる兄弟姉妹に自分の思いを話し聞いて貰うことで、相手と向き合い、相手を赦し、相手のために祈る力をもらうことができるかもしれません。

神様は、私たちをへりくだってお互いを必要とする存在として造られました。ですから、神様から助けられることはあっても、他の兄弟姉妹から助けられることは何もないと考えているとしたら、それは大変な高慢です。逆に、自分には他の兄弟姉妹を助けることのできる何物もないと考えることも、神様を悲しませる態度なのです。

神様は私たちを直接助けてくださることもありますが、私たちの周りに置かれた人々、特に兄弟姉妹を通して、私たちを助け、癒し、成長させてくださるお方です。今日は、お互いの賜物や支援、そして愛を必要とし合う交わりを築くことを通して、私たちはキリストに似た者に造り変えられてゆく、霊的に成長できることを、皆で覚えておきたいと思います。

 私たち四日市キリスト教会に与えられた祝福はいくつもありますが、その一つは兄弟姉妹の年齢、世代の多様性、賜物の多様性です。私たちの教会には、赤ん坊から100歳を越える高齢者まで、あらゆる年代層に万遍なくメンバーがいます。それぞれに与えられた賜物も実に様々で多様です。

ということは、思いがあれば様々な年代、様々な性格や賜物を持つ人々と交わることができる教会だと言うことです。皆様この祝福に気がついているでしょうか。この神様の祝福に感謝しているでしょうか。

このことを踏まえて、いくつかのことをお勧めしたいと思います。

 ひとつ目は、意識的に自分の周りの人に関心を持つこと、ちょっと勇気を出して挨拶や声をかけてみることです。「お早うございます」の一言でも、今日私はあなたに会えてうれしいと言う気持ちを伝えることができると思います。もし普段より元気がないように見えたら、「最近、調子はどうですか。少し疲れているように見えますが」と意識して声をかけることができたらと思います。そういうことばの積み重ねが、「私はあなたの幸せを願っています」と言う思いを伝え、交わりにつながってゆくのではないかと思うのです。

 二つ目は、兄弟姉妹とともに過ごす時間を持つようにすることです。毎月第二週礼拝後の祈りの交わり、第四週の地域会や、第五週に行われる世代別会など、教会のプログラムに参加することをお勧めします。世代別会は同世代の兄弟姉妹との交わり、地域会は世代をこえた交わり、住む地域が近い者同士具体的な助け合いができる交わりです。そこで、兄弟姉妹を知り、親しくなり、より深い交わりのきっかけが作れるからです。

今日は、食事交わり地域会です。イエス様がそうされた様に、共に食事をすることも、お互いに対する愛の表現です。来月10月の第四週には、第一礼拝の後の時間に地域会を持つと言う初の試みもしてみたいと考えています。

三つ目は、神様の愛を心に受けとめつつ、教会の交わりにとどまり続けることです。先ほど言ったように、教会は神様に罪赦された、しかし未だ罪人の集まりです。愛しやすい人、親しみやすい人、気の合う人ばかりが集まっているわけではありません。

しかし、もし周りが愛しやすい人、親しみやすい人ばかりだとしたら、私たちはその様な環境の中で愛を学ぶことができるでしょうか。謙遜や自制、同情心や配慮を身につけることができるでしょうか。

教会は、自己中心の罪を宿す私たちが愛を実践し、失敗する。神様から愛をもらって、また愛を実践し、失敗し、修正してゆく。そんな試行錯誤の繰り返しの中で、愛を学び、愛において成長するための学校として、神様が与えてくださったもの。その様に考え、教会の交わりの中にとどまり続けたいと思うのです。

 

エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

2015年9月20日日曜日

ウェルカム礼拝 コリント人への手紙第Ⅱ4章16節「老いて日々心新しく」


敬老対象の方々、御長寿おめでとうございます。今日は皆様とともに、礼拝をささげられること心から嬉しく思います。また、老いについて考えてみたいと思い礼拝に参加してくださった方々も歓迎いたします。老いも若きも一つになって、聖書に聞くひと時を恵んでくださった神様に感謝しつつ、お話を進めてゆきたいと思います。

ところで、皆様は佐伯チズさんと言う女性を知っているでしょうか。70歳を越えても、顔にしみや皺が一つもないと言われる方で、今テレビや雑誌で引っ張りだこ。佐伯さんが勧める洗顔法や薬、食べ物、書かれた本が多くの女性に注目されているそうです。

佐伯さんは、アンチエイジング=老化防止に努める事、の旗手とも呼ばれています。今日本はアンチエイジングブームとも言われ、男性も女性も様々な方法で老化防止、いつまでも若さを保つことに努めているとも言われます。

しかし、健康な生活を心がけるのは良いとしても、この様なブームの背景にあるものが、個人的にはちょっと気になっています。それは、若いことは良いことで、老いることは厭うべきことと言う価値観、若さがもて囃される一方、老いの意味や尊さが顧みられることの余り無い社会の風潮です。

けれども、本当に若さは歓迎すべきもの、老いは避けるべきものなのでしょうか。若い時が人生の盛りで、老いたら下り坂なのでしょうか。社会の第一線から退いたら、後は余生、余りの人生なのでしょうか。

それでは、聖書は老いについて何と言っているのでしょうか。聖書を開きますと、老いの辛い現実を認めつつも、私たちの人生が成熟するために、神様が与えてくださった贈り物として老いがあると教えられていることが分かります。

 

Ⅱコリント4:16「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」

 

たとえ外なる人、肉体は衰えても、その様な時こそ、内なる人、つまり私たちの人生に対する態度や考え方が若い時とは違う新たなものへと変えられてゆくチャンス、だから私たちは生きる勇気を失わない、と聖書は語っています。肉体的には成長できなくても、人間として成熟することはできるし、そのための機会として神様から老いが贈られたと言うのです。

それでは、老いという現実の中で、私たちが持つと良い新らしい態度、考え方とはどのようなものなのか。今日はふたつのことを皆様にお勧めしたいと思います。

ひとつ目は、老いた自分を受け入れる。老いて色々なことができなくなった自分に落胆せず、愛するということです。

「シルバー川柳」と言う本が、10年以上毎年出されています。高齢者の人々が、自分たちの世代の暮らしや思いについて、もっと言い合える場所を作りたいと言う趣旨で始まったものですが、今では様々な世代から応募があります。2012年は最少年応募者が6歳、最高年が100歳。合計12万句が集まったそうです。

「女子会と言ってでかけるデイケア―」「誕生日ろうそく吹いて立ちくらみ」「中身より字の大きさで選ぶ本」「探し物やっと探して置き忘れ」「デジカメはどんな亀かと孫に聞く」「名が出ない「あれ」「これ」「それ」で用を足す」「惚れ込んだ笑窪も今は皺の中」「手をつなぐ昔はデート今介護」。

足腰が弱る。耳が遠くなる。物や用事を忘れる。年を重ねると、できないことが増えてゆきます。社会の肩書、健康、「若い時はあんなこともできた、こんなこともできた」と言うプライド。様々なものを失います。そんな自分を不甲斐ない、情けないと感じることもあるでしょう。しかし、今ここで紹介した川柳には、老いた自分と向き合い、受け入れ、ユーモアで包むという心の余裕を感じます。

ユーモアは心を柔らかくし、活力を生むと言われます。老いをユーモアで言い表すことは、辛い現実を柔らかく受けとめるため神様が与えてくださった知恵。そう感じます。

私の母は今年80歳になりますが、5年前に股関節の手術をしました。それまで、足の痛みで病院に通っていた時には、しきりに杖を使用することを勧める医者に対して、「私は杖などなくてもちゃんと歩ける。人を年寄り扱いするな」「他人の医者におばあさん呼ばわれされる理由はない」などと怒っていたものです。長い間使った足と言う部品が痛んでゆくのは当たり前なのに、それがなかなか受け入れられない母でした。

しかし、手術以後は、杖を突くようになり、自分にできないことを素直に人に頼むようになりました。今はオカリナと言う楽器のグループに参加していますが、この夏にはコンサートがあり、「年寄りに、あんなに何曲も吹かせて、おかげで息が上がって上がって、本当にエライ目に会ったよ」などと文句を言いながらも、楽しそうでした。「お母さん、今自分で年寄りって言ったじゃないか」と私が言うと、笑っていました。母も徐々に老いを受け入れているように思えます。

若い時には、人は沢山のものをもっています。体力は勿論の事、気力や美しさも輝いています。その力で多少の悩みや痛みなど吹き飛ばすこともできるでしょう。しかし、その若さは永遠でありません。これまで持っていたものを失うのは悲しいこと、辛いことです。しかし、失ったものを嘆いていても前には進めません。

一般的に、キリスト教は隣人愛を教える宗教と言うイメージがあります。しかし、以外にも、イエス・キリストが隣人愛を説くことばには、自分を愛するようにという命令がついているのです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:39)。

自分を愛するとはどういうことでしょうか。不甲斐ない自分、弱さを持つ自分を認めること、そんな自分と仲良く、根気よくつき合ってゆくことです。様々なことができなくなった自分を嫌うことなく、大切に思うことです。そうやって、自分を愛する時、私たちは他人の不甲斐なさや弱さに寛容になり、人に対して謙虚に接してゆけるように思います。

ご存知の方もいるかと思いますが、星野富広さんに「いのちより大切なもの」と言う詩があります。「いのちが一番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」

いのちとある所に、健康、肩書、財産、能力等とことばを入れ替えてみても良いのではないかと思います。健康や肩書、財産や能力が一番大切だと思い、しがみついていると、生きるのが、特に老いてから生きるのが苦しいかもしれません。年を重ねるとともに、それらは衰え、減少し、失われてゆくからです。これはよく分かる気がします。

それでは、いのちより大切なものとは一体何でしょうか。星野さんは書いていませんが、聖書の視点からすると、それはこの世界を造られた神様の愛を知ること、神様の愛を心に受け取ることではないかと思います。

 

イザヤ43:4「わたしの目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

 

これは、神様から私たちに対する最も重要なメッセージです。この自分が、老いて衰え、様々な弱さを持つそのままで、この世界を創造した神様から心から大切に思われ、かけがえのない存在として愛されていることを知る。その時、私たちは自分を受け入れ、愛し、人をも愛してゆく力を持つことができるのです。

ふたつめは、命の使い方を考えて生きることです。若い時、人は時間も体力も無限にある様に感じています。「あれもしたい、これもしたい」と思いは広がるばかりという時期もあるでしょう。衰えや死など」夢にも思わず、眠りにつくことができます。

しかし、年を重ねるとそうはいきません。人生の持ち時間も体力も減ってくるとすれば、勢い何もかもではなく、本当に大切なことを選んでするようになります。人間関係にしても、徐々に量から質へと変わってゆくように思われます。

自分にとって本当に大切なことは何かを考えること、大切な人々との関係を深めようとすること。それは、私たちがより私たちらしく生きるチャンスと言えるのではないでしょうか。

生きるのに最低限必要なものがあれば、それ以上の物を稼がなければならないと言う労苦はありません。人と競争したり、世間から評価されなければと言うストレスからも解放されています。そう考えると、老いは、自分らしい生き方を磨くことのできる恵みの時期とも思えます。

聖書には、個性的な老年を送った人々の記録が残っています。カレブと言う人は、「あなたはもう十分働いてきたのだから、ゆっくり休んでください」と言う若い人々の申し出を拒み、老いてなお同胞のため土地を確保する戦いに従事しました。

誰よりも神様を愛したダビデ王は、自分の目でその完成を見ることができないと分かっていながらも、次の世代の人々が神礼拝のための神殿をつくる材料集めに力を尽くしました。アンナと言う女性は、夫の死後ひたすらに祈りをもって神に仕え、人々の魂の救いを祈り続けたとあります。

数々の名作を世に送り続けた映画監督で俳優のチャップリンは、88歳で亡くなる直前まで、「あなたの作品の中で最高の作品は何ですか」と聞かれると、いつも「ネックスト・ワン=次に手掛ける作品」と答えていたそうです。映画を通して人生の喜びや悲しみを人々に届けることに命を使い切った人生でした。今日の聖書のことばを残したパウロは、最後までキリスト教を人々に伝える歩みを全うした伝道者です。

ある日の新聞にこんな投書が載っていました。投書した女性のお父さんは末期がんでホスピスに入院していたのですが、ある日周囲の心配をよそに、娘さんの家族の家に行き一緒に食事をしたいと言い出したそうです。娘さんの家は、常識的な医療体制の中では、とても行けない程ホスピスから遠い地方にあるのですが、主治医は、痛み止めなどできる限りの方策を用意したうえで、「良いですよ、行ってらっしゃい」と勧めてくれたそうです。

お父さんとの間がぎくしゃくしていると感じていた娘さんには、お父さんの行動が驚きでもあったそうですが、お父さんは娘さんの家で数日の家族団欒を過ごしました。殆ど食べることはできませんでしたが、自分の様な親とともに人生を歩んでくれたことを心から感謝していると話したそうです。ホスピスに帰った翌日、このお父さんは亡くなられました。娘さんは主治医に対し、「父と私たちにとって、お互いに赦しと感謝を伝え合う、最高に幸せな時間をあたえてくださり、ありがとうございます」と繰り返し、お礼をしたそうです。

皆様にとって、残りの人生で本当に大切なこととは何でしょうか。それを考え、選び、実行することが、神様が老いを与えてくれた意味ではないかと思います。

これまで、例に挙げてきた人々の生き方には一つの共通点があります。それは、自分ができることを通して、大切な人に愛を与えたということです。マザー・テレサが残したことばに、「人生の終わりに残るものは、私たちが集めたものではなく、私たちが与えたものだ」と言うものがあります。

若い時は集めること、獲得することに命を使う時期かもしれません。お金や物を集めること、地位や成功や人の評価を獲得することに心が向かう時期でしょう。しかし、老いてからは、大切な人に愛を与えてゆく生き方ができますし、その為に神様が比較的自由な時間をプレゼントしてくださっているのではないかと思います。

先程、年を重ねると人間は失うものがある、できないことが多くなると言いました。しかし、老いて人は全てを失うわけでも、何もできなくなる訳ではありません。むしろ、70年以上人生の荒波を乗り越えて来られた皆様には、皆様にしかない知恵や経験と言う宝物があると思うのです。ぜひ、それを活用してください。

余生と言うと、どこか人生の本番が終わった後の余りの人生と言う感じがします。しかし、もう一つの与生、自分のできることを通して、人々に愛を伝える人生と言う意味での与生がある。このことを教えてくれたのは、私が尊敬する九鬼長老さんです。
これからの人生を、余りの人生と言う意味での余生とするか。それとも、自分のできることを通し人々に愛を与える与生とするか。皆様にご自分の命の使い方を、考えて頂けたらと思うのです。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」皆様のご長寿をお祝いするとともに、これからの歩みが神様に祝福されるよう、心から願い、お祈りしたいと思います。

2015年9月13日日曜日

ルカの福音書40節~42節、49節~56節「主を信頼する」

「あなたが信頼する人は誰ですか?」と聞かれたら、誰を思い浮かべるでしょうか。思い浮かべるのは一人でしょうか、多くの人でしょうか。一般的に、信頼できる人が多くいることは良いこと。自分の周りには信頼出来る人がいないと思いながら生きるのは大変なことです。
 それでは、自分のことを信頼している人はどれ位いるでしょうか。一般的に、信頼してくれる人がいることは、大いに助けになります。信頼に応えたいという思いは、力を生み、悪に走ることを食い止めます。反対に、自分のことを信頼する人などいないと思いながら生きることは辛いこと、危険なことと言えます。
 信頼する多くの人がいる。信頼してくれる人も多くいる。良い信頼関係の中で毎日を生きることが出来たとしたら、それは素晴らしい恵みを頂いていると言えます。
 とはいえ、してはいけない信頼もあります。自分の全存在を任せるような信頼、その人がいないと生きていけないと思うほどの信頼は、相手が親であれ、配偶者であれ、親友であれ、持つべきものではありません。聖書に次のような言葉があるのを知っていたでしょうか。
 イザヤ2章22節
鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。
 
 だいぶ強い表現。人間に頼りにする値打ちなどない、との宣言。とはいえこの言葉は、信頼関係など築き上げられないと言っているのではなく、人間相手の場合、それがどれ程信頼出来ると思う相手だとしても、過度の信頼、本来、神様にしかしてはいけない程の信頼をしてはらないと教えている言葉です。
 皆さまは誰を、どのように信頼して生きているでしょうか。聖書は度々、この世界の創り主、主なる神様を信頼するように。私たちの救い主、イエス・キリストを信頼するようにと教えていますが、どれほど神様を信頼して生きているでしょうか。神様にのみむけるべき信頼を、他のものへ置き換えていないでしょうか。
 私たちは、どのように神様を信頼してきたのか。どのように信頼するよう教えられているのか考えたく、聖書を開きます。比較的有名な箇所。イエス・キリストが会堂管理者ヤイロの娘を生き返らせる場面です。
 
 ルカ8章40節~42節
さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。
 
 病人を癒し、奇跡を行い、ご自身が約束の救い主であることを示してきたイエス・キリスト。当時、人気を博していた主イエスの周りには、多くの群衆が集まっていました。そこに、ヤイロという人が飛び込んできました。この人は会堂管理者であったとわざわざ記されています。会堂管理者と言えば、会堂、礼拝を取り仕切り、そこに集う方々の様々な人の世話役人。その地方の有力者、名士、人々に慕われていた人です。
 そのヤイロが、群衆に囲まれた主イエスを前に、ひれ伏してお願いします。一体何事かという場面。大の男が、会堂管理者という立場ある者が、こんなところで土下座するとは、と人々は驚いたでしょうか。それが、十二歳になる一人娘が死にかけているという事態だったのです。ヤイロからすれば、何としてでも娘を助けたい。何しろ可愛い盛りの一人娘が死の床にある。これまで何人もの病人を癒してきたこの方ならば、娘も直してもらえると考えたのか。イエス様にどうしても来てもらいたい。娘を直してもらいたい。足もとにひれ伏しながらの必死の懇願でした。
 
 この願いを聞いたイエス様は、ヤイロの家に向かいます。しかし、ここで一つの事件が起こるのです。長血の女の病の癒しという出来事。(8章43節~48節)。多くの群衆に囲まれながら、イエス様が一人の女性を探し始めるというのです。
ヤイロからすれば、たまったものではなかったでしょう。一刻を争うこの時。その女性を探すのは後ではいけないのでしょうか。その女性と話すのは、娘を癒してからで良いでしょう。とはいえ、こちらはお願いしている身。焦りの中で胸を焦がしながらも、イエス様が進むのをひたすら待つ。
どれくらい、待っていたでしょうか。結局、ヤイロの家に着く前に、ヤイロの家から使いが到着。もしやと思いきや、案の定、悪い予感が当たってしまう。娘は死にましたとの連絡だったのです。
 
 ルカ8章49節
イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。『あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。』
 
 ヤイロのもとに、これだけは聞きたくないという連絡が到着しました。この時のヤイロの気持ちを想像出来るでしょうか。
「残念無念。万事休す。これで手遅れ。あと少しだけ、早く着くことが出来れば良かった。あの女が現れなければ。いや、イエスがあの女のことを気にしなければ。口惜しい。本当はなんとかなったのではないか。数時間前から、もう一度やり直せたら。こんなことなら、最後まで娘のところにいれば良かった。」
 普通であれば、絶望と怒りで我を失うところ。ところが、このヤイロという人は、イエス・キリストに対してとてつもない信頼を寄せている人でした。
娘の死を知った後の、ヤイロの願いがマタイの福音書には、次のように記されています。
 マタイ9章18節
私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。
 
 私たちは、イエス様が死人を生き返らせることが出来ることを知っています。信じています。しかし当時、どれ程の人が、主イエスに対して、このような信頼を寄せていたでしょうか。娘の死を知らせに来た使者は、「お嬢さんは亡くなったので、先生を煩わせることはないでしょう。」として、イエス様なら死人を生き返らせられるとは考えていませんでした。ところがヤイロは、娘は死ぬも、イエス様来て下さい。手を置いて下されば、生き返りますから、と言うのです。
 目を瞠る信仰。絶大な信頼。よくぞ言った、という場面。(とはいえ、実際に娘が生き返えった際には、ヤイロはひどく驚きました。)
 このヤイロに対して、イエス様の声が響きます。
 ルカ8章50節
これを聞いて、イエスは答えられた。『恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。』
 
 この場面で、不思議な言葉。「恐れないで、ただ信ぜよ。そうすれば、娘は直ります。」自分がヤイロの立場であったとしたら、このイエス様の言葉をどのように受け止めたでしょうか。「確かに娘は死にました。でも、私が生き返らせます。」と言われたのなら分かります。そうではなく、「ただ信ぜよ、娘は直る」(直訳では救われるという言葉)と言われた。娘の訃報が届き、ヤイロ自身、イエス様なら生き返らせられると信じているのですが、まるで娘は死んでいないかのようなイエス様の言葉。
 
 このやりとりの後、一行はヤイロの家に到着します。
 ルカ8章51節
イエスは家にはいられたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょにはいることをお許しにならなかった。
 
 部屋が狭かったのでしょうか。大騒ぎになることを避けるためでしょうか。特別な場面で同伴が許されるいつもの三人の弟子と、ヤイロとその妻のみ、家の中へ。
外には、親戚や隣人が集まっていました。娘の死を哀しみ、一足違いで、娘の死に立ち会うことが出来なかったヤイロの無念さを思う。色を失い、涙する者たち。ここにイエス様の声が響くのです。
ルカ8章52節~53節
人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。『泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。』人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。
 
 人々はヤイロがイエスを迎えに行ったことを知っていたでしょう。今か今かと待ち、その間に娘が息絶えた。あと少しで間に合わなかったという事態に、混乱し、哀しみつつ、涙していたのです。そこに、噂のイエスが来て、「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」との宣言。
 こう言われて、人々はどのように思ったのか。「なんだと。眠っているだけだと。それこそ、寝言ではないか。ヤイロさんはお前を迎えに行ったばかりに、娘さんの死に立ち会えなかった。それを今更来て、泣かなくても良い、眠っているだけだ、なんて。失礼だ、不謹慎だ。」それまで悼み、哀しんでいた人々に、侮蔑の色が広がった場面。
 それでもイエス様は、寝ている娘を起こすかのような行動をとります。
 
 ルカ8章54節~56節
しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。『子どもよ。起きなさい。』すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。
 
 「子どもよ、起きなさい。」との叫び声。叫ばれたというのは、外にいる群衆にも聞こえるためでしょうか。生き返りなさいでも、霊が戻ってくるように、でもない。起きなさい、と。あくまでも、娘は寝ていたものとするイエス様の言動。
 このイエス様の言葉に、娘の霊が戻ってきて、生き返ったと言います。先ほどまで、死の床についていたことを思うと、この娘はしばらく食事もとれていなかったのでしょう。食事をとるようにとの勧めまでされています。
 焦り、戸惑い、混乱しているのは周りにいる人だけ。イエス様ご自身は、至って普通。それこそ、寝ていた娘を起こしただけ。当然のことを当然のこととして行っているだけ。その平常心が際立つ場面です。
 
 これがヤイロの娘を生き返らせた場面。
今日は、この箇所から、私たちはどのように神様を、イエス様を信頼するように教えられているのか考えたいと思います。主に二つあります。
 一つは、イエス様にとって遅すぎることはないということ。手遅れなし、ということです。私たちの人生には、もはやこれまで。万事休す。これで終わりと思う場面に出くわすことがあります。病というだけでなく、人生設計、人間関係、信仰生活において、もうここまで、という声を上げることがあります。
しかし、人の目には手遅れと見えることが多々あっても、主なる神様、我らが救い主には手遅れ無し、と確認するのです。
 病の中にあり、死を間近にしながら、これで終わりではない。死を突破し、墓の向こうに人生を開く。地上での生涯の終わりを、天上での生涯の始まりとする道があります。
 これぞ最上と思い取り組んできた人生設計が壊れた時、神様が私に与えようとしている人生を見出す世界があります。
 何度取り組んでもうまくいかない、その人間関係を、愛に満ちたものに変えて下さる救い主がいます。
 罪にまみれた人生。今さら罪が赦されるはずもない。もうキリスト者とは言えない。教会に行けないと思う状態でも。自分で自分を否定しても、それでも私たちを愛する神様がいます。
 起こりくる様々なことに私たちが悲鳴を上げる時。万事休す。これで終わりと嘆く時。主イエスが何と言われているのか。「恐れるな。私を信じなさい。私を信頼しなさい。」と呼びかけられる。その御声を、しっかりと聞き、受けとめたいのです。そのように、神様を、イエス様を信頼する歩みを送りたいと思います。
 
 もう一つ、今日の箇所から確認したいのは、イエス様が、娘を死んだと言わなかったのは何故かということです。
このヤイロの娘を生き返らせる出来事を通して、イエス様はご自身がどのような存在だと示したかったのでしょうか。死人を生き返らせる力を持っていることを示そうというならば、「娘は死んでいます。でも私が生き返らせます。」と言われたと思います。しかし、イエス様は、娘は死んでいると一度も言われませんでした。それでは、一体、何を伝えたかったのか。
この時、ヤイロの娘は心臓が止まり、呼吸をしていませんでした。私たちは、それを死んでいると言います。しかし、もしその状態の少女について、イエス様が死んでいないと言われたら、どうなるのか。それが今日の箇所に示されていることです。
仮に私が、心臓が止まり、呼吸をしていない人を前に、この人は生きていると言ったとしても、何もなりません。現実に反する言葉を言っただけです。ところが、もしイエス様がそのように言われるとしたら。何が起こるのか。
目の前に起っていることと、イエス様の言葉が相反するように思える時。どちらが事実となるのか。心臓が止まり、呼吸をしていなくとも、主イエスが死んでいないと言うのであれば、それが事実となる世界。私たちの生きている世界は、神の言葉が事実となる世界であると教えられるのです。
 イエス様の言葉は完全に真実である。神の言葉は必ず実現する。このことを本気で信じるというのは、イエス様に死人を生き返らせる力があると信じることよりも、より強い信頼だと思います。
 この方の言葉によって世界が創られ、この方の言葉によって世界が支配されている。そのようにイエス様を、神様を信頼していきたいと思います。
 
 一般的に、相手のことを知り、関係が深まることで、信頼も強まるものです。日々の賛美と祈り。聖書を読むこと。礼拝を味わうこと。仲間とともに励まし合い、助け合うこと。そのようなキリスト者の歩みを通して、少しずつ神様を知り、神様との関係を深め、より神様を信頼する者へと変えられていく。そのような祝福を皆で味わいたいと思います。

2015年9月6日日曜日

ヨハネの福音書21章15節~25節「あなたはわたしを愛しますか」


私たちが礼拝において読み進めてきたヨハネの福音書も、今日が最終回となります。最後の21章は、死より復活したイエス・キリストが弟子たちに現われた場面、特に三度目の現われを描いていました。

都エルサレムから故郷ガリラヤに戻った弟子たちが、夜湖に漁に出る。しかし、一匹の魚も取れず、ガッカリした所にイエス様が現われ、船の右に網をおろしなさいと命じる。それに従うと大漁の収穫。岸辺に戻れば、そこにはイエス様が炭火を起こし、朝の食事を用意して、優しく弟子たちをねぎらってくださる。先回は、この様なイエス様と弟子たちの和やかな交わりの場面を、私たち見ることができました。

さて、今日は、その様な食事の交わりが終わった後のことです。21節の「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとをついてくるのを見た」ということばからすると、イエス様とペテロが並んで先頭を行き、少し離れた所をこの福音書の著者ヨハネが歩き、その後ろを他の弟子たちがついてくる。その様な様子を思い浮かべることができるように思います。そして、二人きりになるのを見計らうと、イエス様はペテロに語りかけたのです。イエス様とペテロ、一対一の会話です。

 

21:15~17「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

 

最初にイエス様は、「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」と尋ねています。イエス様は何故「あなたは、あなたは、この人たち、つまり他の弟子たち以上に、わたしを愛しますか」と言われたのでしょうか。実は十字架前夜、イエス様は「この後あなたがたはわたしを離れてゆく。しかし、わたしは復活してガリラヤに行く」と、弟子たちに警告しました。その時、自信満々反論したのが、ペテロだったのです。

 

マタイ26:33「たとい、全部の者がつまづいても、私はつまづきません。」

 

イエス様は、ペテロが自ら口にしたこのことばを思い起こさせるため、「この人たち以上にわたしを愛しますか」と言われたと考えられます。しかし、こう豪語したペテロも、実際は他の弟子同様、イエス様が逮捕される際、逃げ去りました。

ですから、このことばを通して、「あの時あなたは他の弟子よりも、わたしに忠実であり、わたしを愛していると確信していました。しかし、その後の出来事を振り返って、今も、あなたは他の人以上にわたしを愛していると言えますか」、そうイエス様はペテロに問いかけておられるのではないかと思われます。

ペテロの答えは「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」でした。先回も見たように、復活の主が現われたのを知った時、真っ先にイエス様のもとに近づこうとしたのはペテロ、食事の後そばを離れがたく、イエス様と一緒に歩いたのもペテロ。彼はイエス様を愛していたのです。

しかし、イエス様が十字架に命を捨ててまで罪人を赦し、愛してくださったその愛に比べれば、自分のイエス様に対する愛などいかに弱く、小さなものかを感じていたのでしょう。もはや、愛の大きさを人と比べるなどと言う考えも、なくなっていました。「本当に小さな愛ですが、私はあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えたペテロの姿は自信満々とは正反対、実に謙遜だったのです。これに対して、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と命じています。ペテロが教会の指導者となり、兄弟姉妹たちに仕え、その魂を養う働きをせよと言う命令でした。

ここで注目したいのは、私たちが人に仕える時、奉仕する時、私たちの心にイエス様に対する愛があるかどうかを、イエス様は何よりも大切にしているということです。私たちの愛がいかにイエス様の測り知れない愛に支えられているかを、私たちがきちんと理解し、心深く受けとめているかどうか。それをイエス様はご覧になっているのです。

ですから、イエス様の問いかけはさらに二度、三度と続きます。そして、二度目の問いには同じ答えを返したペテロも、三度同じことを尋ねられた時「心を痛めた」とあります。恐らく、三度「あなたはわたしを愛しますか」と問われた時、裁判が行われた家の庭で「あなたも、あのイエスの弟子ですね」と言われ、思わず三度イエス様との関係を否定し、裏切ってしまった出来事を、彼は思い出したのでしょう。

イエス様は再びペテロが自分の罪、自分の弱さを見つめることを促したのです。それは彼にとって悲しいこと、辛いことであったに違いありません。しかし、その悲しみの中で、復活したイエス様が自分を一言も責めず、「あなたに平安あれ」と語られたことを思い、罪の赦しの恵みを受け取ることができたのです。

「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」。このことばは、罪も弱さもよく知ったうえで、イエス様が自分の様な者を愛してくださっていることを堅く信じたペテロによる、精一杯の応答でした。

こうして、ペテロの愛を確認したイエス様は、次にこの後彼がどのような人生を歩むことになるのかをお告げになります。

 

21:18、19「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

 

伝承によれば、ペテロはローマで兵士たちに両手を縛られ、処刑場に連れて行かれ、十字架で殉教したと言われます。イエス様と同じ姿で死ぬことは申し訳ないと、逆さ十字架を希望したと言う伝承も残っています。

それはそれとして、ここで言われている若い時の自由と年老いてからの制約と言うのは、私たちの人生にも通じるものがある様に思います。若い時には限界や制約をあまり意識せずに、自由を謳歌することができます。しかし、年齢を重ねてゆくにつれ、私たちは様々な面で限界や制約を痛感します。健康面、能力面、行動範囲の限界、また思い通りにならない現実がいかに多いか、痛感するようにもなります。

そういう意味で、このことばは、若い時も、年老いても、生涯を通じて主イエスを愛し、従ってゆく、その様な信仰の歩みに対する心構えと取ることもできるでしょう。私たちが望まない様な状況、環境の中に置かれる時こそ、十字架を担われたイエス様の愛の豊かさを味わい、イエス様への愛を深め、イエス様に従ってゆく。私たちも、その様な人生を目指したいと思います。

ところで、将来について預言されたペテロには、気になることがあったようです。それは弟子たちの中でも特に仲の良かったヨハネのことです。活動的なペテロと内省的なヨハネ。性格は対照的でしたが、二人はよく行動を共にし、十字架前夜裁判の行われていた家に行く時も、イエス様の墓に行く時も一緒でした。ですから、ペテロは、私のことは分かりましたが、ヨハネについてはどうなのですかと尋ねています。

 

21:20~23「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」と言われたのである。」

 

ヨハネが福音書を書いた頃、この時のイエス様のことばが人々に誤解されていたようです。ヨハネは、イエス様が世の終わりに再臨するまで死なないと言う誤解です。それを訂正し、イエス様が伝えたかったのは、イエス様ご自身が私たち一人一人に相応しい使命と人生を与えてくださることと、ヨハネは記しました。

私たちは、とかく人の人生と自分の人生を比べて、幸不幸を考えがちです。しかし、イエス様が備えてくださった人生は、他者と比較できるものではないと教えられます。何を使命と考えるか、どれだけのことができるのか、どれだけ長く生きるのか。イエス様と私たちひとりひとりの交わりにおいて、許される特別な人生がそこにあるのです。

ですから、他人の人生を横目で見て羨んだり、他者と比べて得意になったりしてはならないと思います。むしろ、イエス様に与えられた状況を受け入れ、そこで「あなたは、わたしに従いなさい」と言われるイエス様を愛すること、従うことに集中すべしと教えられたい。そう思います。

最後は著者ヨハネの自己紹介です。しかし、最後まで自分の名前を明かさず、キリストの弟子のひとりと語るところが、ヨハネらしいと言えるでしょうか。

 

21:24,25「これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」

 

「イエスが行なわれたことをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う」。この最後のことばは、イエス様が地上で行われたわざがこの堕落した世界にとっていかに重大な意味を持つのか。とても書き尽くすことはできないと言うヨハネの思いを良く伝えています。私たちは、イエス様がこの世界に来られ、行われた様々なわざをどう考え、どう思っているのか。ヨハネと同じく、その尊さ、その愛に心動かされているか。そう問われるところです。

さて、今日の箇所を読み終え、改めて確認したいのは、「あなたはわたしを愛するか」と言うイエス様のことばです。皆様は、「あなたはわたしを愛するか」とイエス様に聞かれたら、何と応えるでしょうか。イエス様が最も関心を持っておられるのは、私たちの心にイエス様ご自身への愛があるかどうかであるということに、気がついているでしょうか。

イエス様に「わたしを愛しますか」と問われる時、私たちは自らの内面と向き合うことになります。自分の罪や弱さと向き合い、自らの愛の欠けや偽りを見つめることになるのです。私の愛しているのは自分であり、自分の正しさや自分の考えに酔いしれて来ただけなのではないかと省み、イエス様を悲しませ、人を傷つけてきたことに心痛みます。

しかし、その様に心の皮を一つ一つ剥されて行く中で、私たちはイエス様から罪の赦しの恵みを受け取ることができるのです。自分のことをすべてご存知の上で,十字架に命を捨ててくださったお方の愛が心の奥に届いて来るのです。その時「イエス様、あなたの聖なる愛には到底及びませんが、本当に小さな愛ですが、私も心からあなたを愛します」と告白できるのではないでしょうか。

しかし、イエス様が求めているのは、愛の思いだけではありません。イエス様の愛によって心に起こされた愛を実行することが求められているのです。ペテロに対し、「わたしの羊を飼いなさい、養いなさい」と言われた様に、私たちに与えられた家族、地域の隣人、会社の同僚や学校の仲間、そして兄弟姉妹に仕えること、特に羊の様に弱い立場にいる人々に配慮し、その幸いのために力を尽くすことを、イエス様は喜ばれるのです。

私たちは家族、隣人、兄弟姉妹を、イエス様に愛されている羊と見ているでしょうか。その様な存在と見て、接しているでしょうか。イエス様を愛すると言いながら、イエス様が大切に思う人々を軽んじたり、その苦しみに目を閉じたり、為し得る助けの手を差し出さないなら、私たちのイエス様への愛は本物ではないと言われてしまうでしょう。

勿論、初めから、或いはすべての事が上手くいくわけではないでしょう。失敗、落胆を繰り返すこともあるかもしれません。しかし、そんな私たちをあるがまま受け入れてくださるイエス様を頼る者、イエス様を我が力、我が知恵とする者、その上で何度でも愛の実践に努める者になれたらと思います。今日の聖句です。

 

Ⅰヨハネ4:20,21「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」