2015年8月23日日曜日

ヨハネの福音書21章1節~14節「もう1度ご自分を現された主」


礼拝において、読み進めてきたヨハネの福音書。ついに最終21章に入ります。20章、21章は、イエス・キリスト復活の場面でした。最初マグダラのマリヤに現われたイエス様が、二度目には人々を恐れて家に身を潜めていた弟子たちの中に立ち、三度目は、その時不在であったトマスを含めた弟子たちのいる家に再度現われてくださったのです。

マリヤが一番に信じ、次にヨハネが信じ、更に弟子たちが信じ、最後に「自分の手をイエス様の手と脇腹に差し入れるまでは信じられない」と言っていた頑固なトマスも信じ、徐々に復活の主を信じる人々が起こされてゆきました。

そして、今日はそれから一週間ほど後のこと。都エルサレムから故郷ガリラヤに帰ってきた弟子たちの所に、イエス様が現われます。正確には四度目となりますが、ヨハネの福音書がこれを三度目(14節)と書いているのは、弟子たちがグループで集まっている所に現われた時だけを数えているからでしょう。

 

21:1、2「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。」

 

イエス様の12弟子の多くはガリラヤ地方の出身。そこに広がる美しい湖がガリラヤ湖で、ヨハネの福音書ではテベリヤの湖と呼ばれています。この時、そのほとりに立っていたのは、七人の弟子たち。リーダー格のペテロ、最後まで信じないと言い張ったトマス、祈りの人ナタナエル、それにゼベダイの子たち、つまりヤコブとこの福音書を書いたヨハネの合計七人でした。

一週間ほど前、都エルサレムの一室でイエス様に出会い、「あなたがたに平安あれ」と言われ、この世に遣わされることになった弟子たち。しかし、その時はまだ来ていなかったのでしょう。彼らは生活のため、湖に入って魚を取ろうと考えました。

そうなると、元漁師のペテロ、それにヨハネやヤコブ兄弟の出番です。「さあ、出発だ」と威勢の良い声を出したのはペテロでした。

 

21:3~7「シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。」

 

ガリラヤ湖での漁は通常夜中から明け方にかけて行われたそうです。しかし、その日は全くの空振り。一匹の魚も網にはかからない。全くの徒労に終わってしまいました。体はくたくた。心はガッカリ。疲れ果てた彼らが、船を岸に戻しかけたその時でした。イエス様が岸辺から声をかけたのです。「子どもたちよ。食べる物がありませんね」。弟子たちの疲れと空腹を思い遣る、親しく、優しい声が響きます。

すると、次は調子が一転。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます」と、魚のいる場所を的確に示す、力強いことばが発せられました。恐らく、この声を耳にした時、彼らの心に蘇る出来事があったのではないかと思います。

地上にある間、ここガリラヤ湖とその周りで、イエス様は何度も人々を教え、奇跡を行いました。弟子たちはいつも教えを聞き、奇跡を目撃し、イエス様とともに歩んだのです。この地は彼らにとってイエス様との思い出が詰まった場所でした。中でも、この時彼らが思い起こしたのは、同じ湖で漁を行い、一匹の魚も取れずに落胆した時、イエス様の指示に従って深みに漕ぎ出し、網を下すと大量になったと言う出来事だったでしょう。

ですから、最初はイエス様だとは分からなかった弟子たちも、この力強いことば聞いて、「もしかすると、あれはイエス様」と思い、指示に従ったと考えられます。すると、結果は網を引き揚げられない程の大漁。彼らは驚き、喜びます。

この時のヨハネとペテロ二人組の反応が対照的でした。イエス様に愛された弟子ヨハネは、静かに「主です」と年長のペテロに告げ、対するペテロは喜びの余り、裸に上着をまとい、湖に飛び込んだと言うのです。泳いだのか、それとも波をかき分けて歩いたのか。いずれにしても行動型のペテロ、内省型のヨハネ。動のペテロに静のヨハネ。良いコンビネーションでした。

他の弟子たちは、網を引いて小舟でついて来たとあるのも、印象的です。内省型、行動型、管理型に実務型。教会には様々なタイプの人がいて良いし、イエス様は様々タイプの人を集めて教会をつくるお方と確認したいところです。

しかし、忘れてならないのは、彼らが大漁の収穫を得たのは、イエス様の指示、みこころに従ったからだと言う点です。イエス様は全知の神様。舟の右側に大量の魚がいることをご存知の上で、「右に網を」と指示されました。けれども、弟子たちがそのことばを信じて実際に網を下し、働いたからこそ、収穫が与えられたのです。

イエス・キリストの祝福を信じている、みことばを信じていると口では言いながら、実際にはみこころに従おうとしないことのある私たち。イエス様を信じるとは、イエス様の祝福を心から期待し、自分ができることを考え、全力を尽くして行動すること。そう教えられたいところです。

こうして、弟子たちが岸辺にたどり着くと、そこには思いもかけないお祝いの席が待っていました。何と、イエス様が自ら朝の食事を用意しておられたのです。

 

21:9~14「こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。」

 

冷え切った体を暖める炭火。疲れ果てた体を癒す魚とパン。そして、「さあ来て、朝の食事をしなさい」と優しく招くと、ご自分の手で、パンも魚も弟子たちに渡してくださるイエス様。親が子どもに心を配るように、人が大切な友を労わるように、弟子たちに仕えるイエス様の姿です。

 先回の場面でもそうでしたが、弟子たちは最初岸辺に立つ人がイエス様だとは気がつきませんでした。恐らく、イエス様の復活の体が、地上を歩まれた時の体と、性質、力、栄光において、違っていたからだろうと考えられます。何も邪魔する物がないかのように、自由に空間を移動する。いつ、どこに現われるのかも自由自在。そんなイエス様の様子に、復活の体の特徴の一端が伺えます。

 そして、その様な復活の主に出会った彼らは、畏れたことでしょう。復活の体の栄光を見て、地上を歩まれていた時の体とは違うものを感じ、イエス様との間に少し距離を感じていたかもしれません。

 しかし、イエス様との思い出が詰まったガリラヤ湖の岸辺で、共に朝の食事をとるうちに、彼らはイエス様と自分たちの関係が、以前と全く変わらない親しいものであると感じることができたのではないでしょうか。

「弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった」ということばは、彼らが安心して復活の主と共に食事をしたことを示しているように思えます。復活されたからと言って、イエス様が全く偉ぶることなく、むしろ彼らの疲れた体を気遣い、喜んで給仕役をつとめ、仕えられたからこそ、彼らの心の緊張が解けたのです。

 このヨハネの福音書21章の前半は、一幅の絵画のように美しい場面と評されてきました。私には絵心がありませんが、書けるものならなら書いてみたい気がします。それは、風景の美しさではなく、交わりの麗しさです。

ある人がこの箇所について、「イエス様は、ご自分を信じる者と親しく交わることを愛される」と語っています。私たちはイエス様と親しく交わることが、信仰生活の上でとても大切だと考えています。しかし、それを愛しているでしょうか。イエス様との交わりを大切にする者から愛する者へ。私たちが考える以上に、私たちとの親しい交わりを望み、愛するのが私たちの主、イエス様であることを覚えたい所です。

 さて、こうして読み終えた今日の箇所。最後に二つのことを確認したいと思います。

 ひとつ目は、復活の主はいつでも、どこでも、私たちとともにいて、私たちの必要を知っていてくださることです。17節に「イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である」とありますが、何故イエス様は三度も弟子たちにご自分を現されたのでしょうか。

 前の二回、イエス様が姿を現されたのは安息日、つまり礼拝の日でした。しかし、今日の箇所では、普通の日です。また、前の二回、イエス様が姿を現されたのは都エルサレムでしたが、今回は弟子たちの故郷、日常生活の場、ガリラヤ湖の岸辺でした。

復活の主は、礼拝の日だけでなく普通の日も、都エルサレムの様な特別な場所だけでなく、私たちの生活の現場、職場、家庭にもともにいてくださるお方。私たちの霊的必要だけでなく、私たちの体の必要についても、そのすべてを知っておられ、心を配ってくださるお方であることを教えられたいのです。

「イエス・キリストは、私たちの罪を赦してくださった。永遠のいのちを与えてくださった。しかし、イエス様は私たちの食べ物のこと、経済のこと、住まいのこと、その他日常生活の小さな必要の数々になど、関心があるのだろうか。」「日曜日教会の礼拝に来ると、イエス・キリストの臨在を覚える。しかし、職場や家庭にも、イエス様はともにおられるのだろうか。」皆様はその様に思われたことはないでしょうか。

いつでも、どこでも、何をしていても、イエス様は私たちともにおられる。私たちのことを心にかけておられ、片時も忘れることはない。日々、復活の主イエス様とともに歩む者でありたいと思います。

二つ目は、天の御国での私たちの生活を思うと言うことです。今日の箇所は、聖書の他の箇所と照らし合わせてみると、天の御国での生活を表わす象徴とも考えられます。

 

マタイ13:47、48「また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。」

 

弟子たちがイエス様のもとに運んで来た網は153匹の魚で一杯であったと言われています。その頃、ユダヤでは魚の種類は全部で153種類とされていたそうです。つまり、網一杯の魚は、イエス様がもう一度この世界に来られる時、世界中の国から集められる信仰者、兄弟姉妹の象徴とも考えられます。

さらに、ルカの福音書にはこの様なイエス様のことばもあります。天の御国では、イエス様が集められた民のため、食卓で仕える給仕となって、祝福してくださると言うのです。

 

ルカ12:37「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。」

 

まさに、ヨハネの福音書の今日の箇所に描かれたイエス様と弟子たちの交わりは、将来来るべき天の御国での生活を示しています。イエス様に直接仕えて頂ける、イエス様と私たちの愛の関係を示しているのです。地上での労苦をすべて終える時、私たちは優しく招いてくださるイエス様に顔と顔を合わせて、お会いすることができる。

地上にある間も、その後も、イエス様のもとに招かれている者であることを、私たちともに喜びたいと思います。今日の聖句です。

 

Ⅰペテロ1:8「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」

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