2015年6月28日日曜日

ヨハネの福音書19章28節~37節 「完了した」


イエス・キリストの死について、二つの見方があるのを皆様はご存知でしょうか。ひとつは、十字架の死は、イエス様がユダヤ教指導者やローマの総督など、この世の罪の力に敗北したことを示すという敗北説です。本多顕と言う人が「愚者の楽園」と言う本で書き、広まりました。二つ目は、十字架の死によってイエス様は罪の力に勝利し、人類の罪の贖いを成し遂げたとする勝利説です。

私たちは敗北説を非常に表面的な聖書の理解と考えています。私たちはキリストの勝利こそ、聖書の真のメッセージと信じる者。そして、イエス様が息を引き取る場面を描く今日の箇所も、私たちにキリストの勝利、罪の力の敗北を印象的に教えているのです。

さて、時は紀元30年頃の春、ある金曜日の午後。場所はユダヤの都エルサレムにある、通称ゴルゴダの丘。すでに十字架に付けられてから六時間近く。イエス様が、大量の出血と、極度の呼吸困難に苦しみつつ発した言葉を、ヨハネの福音書はこう記しています。

 

19:28,29「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。」

 

死の直前、イエス様が口にしたのは「わたしは渇く」とのことばでした。これは、単にイエス様が激しい喉の渇きを覚えていたと言う次元のことではありません。イエス様が味わっておられた霊的な苦しみを示すことばです。

旧約聖書の詩篇には、やがて来るべき救い主の雛型とされるダビデ王が経験した様々な苦しみが記録されています。そこには、イエス様が十字架上で経験する苦しみが映し出されており、「わたしは渇く」もその一つでした。

 

詩篇69:3,21「 私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました。…彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」

 

ここには、人々の敵意と嘲りに苦しむ神のしもべの姿が描かれています。ダビデはその時、激しい渇きを覚えていましたが、その原因は「私の目は、わが神を待ちわびて衰えた」とある通り、神様との親しい交わりを失っていたことにありました。

イエス様が十字架上で味わった苦しみは、肉体の苦しみ、人々から受ける辱めに加え、人間の罪がもたらす裁きを受けたことにあります。即ち、天の父なる神様との交わりが断絶、天の父の愛を受け取ることのできない、恐ろしい孤独に落とされたことが渇きの最も大きな原因だったのです。ことばを代えて言うなら、人類がまだ誰一人それを味わったことがない地獄を、イエス様は先取りして経験されたことを聖書は教えているのです。

 しかし、その様な苦しみを思っても見ない人間は、安物の酸いぶどう酒を海面にしみ込ませ、差し出します。単に喉の渇きと理解したのです。けれど、僅かなぶどう酒は渇きを癒すどころか、むしろ渇きを助長するもの。一見親切と見える兵士の行動も、実は渇く者をさらに深い渇きで苦しめるための行動でした。私たちはここに人間の罪と、死の直前まで人間の罪を全身で受けとめ、忍耐されるイエス様の姿を見ることができます。 

 そして、最後に発せられるのが、完了したと言う有名なことばです。

 

 19:30「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」

 

 完了した。これは、ご自分の使命をすべて果たし終えることができたと確信した人の勝利宣言です。そして、イエス様の使命とは、人類の罪を赦すことでした。

 罪を赦すこと。それは、神様にとって決して容易なことではありませんでした。むしろ非常に難しく、辛いことだったのです。

旧約聖書には、神様が人間の罪を深く悲しむ様子が何度も出てきます。神の民イスラエルが犯した罪の一つ一つに対し、神様は悲しみ、傷つき、怒っておられます。神様は人々の罪を、妻の背信、恋人の裏切り、我が子の反抗に等しいものと感じておられたのです。神様にとってどれ程人間が大切な存在であるか。本当に大切な存在であるからこそ、人間の罪がどれ程神様の心を傷つけ、痛めたか。それがよく分かります。

そして、最後には神の御子が人の姿を取り、十字架で苦しみ、裁かれ、死ぬことによって、漸く罪の赦しは成し遂げられた、完成したと聖書は教えているのです。

この世界を六日で創造することのできた神様、測り知れない力を持つ全能の神様が、私たちの罪を赦す為には、長い時間をかけ、自ら悲しみ、嘆き、心痛め、尊い犠牲を払わなければならなかったのです。こうして歴史始まって以来続けられてきた、神様の罪の赦しのわざ、そこに込められた神様の思い、それらすべてを覚えつつ、イエス様が口にされたのが、「完了した」ということばでした。私たちも、このことばに込められた神様の限りない愛と忍耐を、心に受けとめたい、受けとめなければと思わされます。

ところで、続いて語られるのは、イエス様の使命の完成が証しされてゆく様子です。それが思わぬ出来事を通して証しされたことを、目撃者であり、著者ヨハネは語ります。先ず取り上げられるのは、イエス様のすねの骨が折られなかったと言う出来事です。

 

19:31~33,36「その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。・・・この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。」

 

当時のローマ人には、十字架の囚人を野に放置しておくのは何でもないことでした。しかし、ユダヤ人にとって死体は宗教的に汚れた物。特に、木につけられた死刑囚の遺体は、神に呪われたものとして、特に忌み嫌われたのです。

しかも、イエス様が十字架に付けられた金曜日はユダヤ最大の祭り、過越しの祭りの最中で、翌日は安息日でした。この安息日は非常に重要とされ、「大いなる日」と呼ばれていたのです。ですから、ユダヤ人は、その日のうちに遺体を片付けるよう、囚人の死を早める処置を願い出たと言うのです。

それは鉄製の大きな金槌で囚人のすねを打ち砕くこと。この激痛により人は一瞬で死ぬと言われた恐ろしい方法です。そして、遣わされた兵士は息の残っていた二人の囚人の骨を砕きますが、イエス様の所に来ると、既に息絶えておられるのを確認します。脛の骨を折るまでもない状況でした。イエス様の死が早かったのは、十字架直前に加えられた酷い鞭打ちのためと考えられます。

これを目撃したヨハネは、偶然とも見えるこの出来事に重大な意味があることに後々気がつきます。「この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するため」とある通りです。

「彼の骨は一つも砕かれない」は、旧約聖書詩篇34篇20節にある「主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない」からの引用とされます。ここに示されているのは、主なる神に従う人、義人は必ず守られるとの信仰です。天の父がイエス様を守られた愛が「彼の骨は一つも砕かれない」ということばで表現されていました。ヨハネはこの出来事を、天の父が、十字架に死なれたイエス様を最後までみこころに従い通した義人と認め、守られたことのしるしと見たのです。

さらに、もうひとつの出来事に読む者の心を向けようと、ヨハネは語り続けます。

 

19:34~.35,37「しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。・・・また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。」

 

兵士たちがわき腹を突き刺したのは、その死を確認するためです。既に、イエス様が息絶えていたことを確認したはずなのに、なぜ槍を用いて残酷な処置をするのか。そう思われるところですが、これによって、イエス様の体からすぐに血と水とが出てきたのを印象深く覚えていたヨハネは、そこにも霊的な意味があることを悟ったのでしょう。「それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である」と、この出来事に重要な意味があることを強調しています。

その意味とは何でしょうか。イエス様の遺体から流れ出た血は、十字架の死によって罪の赦しが完成したことを、水は十字架の死によってもたらされる永遠のいのちを示すものと伝統的に考えられてきました。

また、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」とあるみことばは、旧約聖書ゼカリヤ書からの引用です。神の民イスラエルが、自分たちの所に遣わされた救い主を殺してしまうのですが、その様な罪を犯した人々も救い主の死によってもたらされる恵みを見ることになる。その様な預言が語られているところです。

この福音書を書いたヨハネは、12弟子の中でただ一人十字架の下にとどまり、これらの出来事を目撃しました。そこに人間の思いをこえた神様の救いの御業が着々と実現し、完成してゆく有様を見たのです。

渇きで苦しむ人をさらに苦しめる酸いぶどう酒を差し出した兵士。「早く殺して、片づけてくれ」とばかり、遺体の処置を願い出たユダヤ人。イエス様の死を確認したはずなのに、さらに脇腹を槍で刺したローマ人。人は人をこれ程苦しめ、辱め、残酷になれるものかと感じさせる行いばかり。私たち人間の罪の深さ、恐ろしさを思わせます。

しかし、イエス様はこの様な罪を全部引き受け、罪の赦しを完成されました。神様はこの様な罪をも用いて、イエス様が尊い使命を果たし終えた救い主であることを認め、その死がもたらす恵みが何であるか、私たちに示されたのです。

人間の罪は神様の愛に勝つことができない。神様の愛は人間の罪を十字架に付け、死なしめ、これに勝利された。イエス・キリストの十字架の死は敗北ではなく、勝利。私たちこのことを確認、確信したいところです。

そして、最後に私たちが心に刻みたいのは、イエス・キリストを信じる者が受け取る二つの恵み、その体から流れ出た血と水のことです。血が表わす罪の赦しと、水が示す永遠のいのち。この二つの恵みについて本当に理解しているかどうか、日々これを喜びながら歩んでいるかどうか。これは私たちの人生に大きな影響を与えることなのです。

まず、罪の赦しについて、今日の聖句をともに読んでみたいと思います。

 

ローマ4:6~8「ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」

 

罪赦された人の幸いについて、二つのことが言われています。一つは主がその人の罪を認めないと言う幸いです。神様は、私たちの中にある罪を見ても、もはやその罪のゆえに私たちを責めることも、裁くこともしないと言うことです。もう一つは、神様に義と認められる幸いです。私たちは罪人のまま、イエス様と同じく罪のない者、義しい者として神様に認められ、扱っていただけるという幸いでした。

皆様は、この恵みを理解しているでしょうか。自分の罪を認めないのは、聖なる神様の前に傲慢です。しかし、自分の罪を認め、これを責めるだけで、イエス様が与えてくださる罪の赦しの恵みを受け取らないことも神様の前に等しく傲慢な態度なのです。罪のどん底にあっても、罪の赦しを求めることのできる幸い、それを心から求める謙遜な歩みを進めてゆきたいと思うのです。

第二に、イエス・キリストを信じた私たちは、水によって示される永遠のいのちを受け取っています。神様と親しく交わりたいと願ういのち、神様の悲しむ罪を避け、神様が喜ばれる考え方、生き方を目指そうと願ういのち、神様と人を愛することを最も大切に考え、実践に努めるいのち。皆様は自分の中にこの様な命が生れ、徐々に成長していることを自覚しているでしょうか。たとえ、ひどい罪を犯しても、この様ないのちが消えることなく、心によみがえってくる経験をしたことがないでしょうか。

罪の赦しと永遠のいのち。イエス・キリストを信じる以前には思ってみたこともない、これらの恵みを喜び、大切にしながら、日々歩む者でありたいと思います。

2015年6月21日日曜日

申命記5章16節 「幸せになるため」


聖書とはどのような書物なのか。聖書についての名言は多く残されています。

「聖書は古いものでも新しいものでもない。永遠のものである。」(マルティン・ルター)、「聖書を教えない単なる教育は、無責任な人に鉄砲を渡すようなものである。」(セオドア・ルーズベルト)、

「聖書は世界無二、宇宙第一の書である。」(山室軍平)

「聖書は、神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。」(アブラハム・リンカーン)

「人類の歴史よりも、聖書の中にはより確かな真理がある。」(アイザック・ニュートン)

などなど。他にもいくらでも挙げることが出来ます。あるいは、自分で考えても良いかもしれません。これぞ、という言葉を思いついた方は、是非とも教えて頂きたいと思います。

 誰が言った言葉なのか。出典の分からないもので(知っている方がいたら教えて頂きたいのですが)「聖書は人間の取扱説明書」という言葉もあります。

 聖書には、人間が何のために存在し、どのように生きるべきなのか記されている、という意味でしょう。取扱説明書の通りに使わないと、故障しやすい使い方になります。新しく買った物を、取扱説明書を読まずに使うと、全ての機能を使うことが難しくなります。聖書抜きに人間が生きると、傷つきやすく、自分らしく生きることが出来ない。「聖書は人間の取扱説明書」とは言いえて妙です。

 

 それでは、私たちがどのように生きるべきなのか。聖書のどこに記されているのかと言えば、実に様々なところに記されています。原理原則で表現されることもあれば、微に入り細を穿つ具体的なものもある。しかし、要約的にまとめられている箇所と言えば、十戒を挙げることが出来ます。いかに神様を愛するのか、いかに隣人を愛するのか。十の戒めにまとめられた教え。

 今日は父の日に因んで、親子関係について、十戒のうち第五戒に焦点を当てて考えていきたいと思います。まずは第五戒そのものを見る前に、ご存知の方も多くいると思いますが、十戒についていくつかのことを確認しておきます。

 

十戒はどのような場面で、神様から神の民に語られたのでしょうか。十戒が与えられたのは、旧約聖書の中でも特筆すべき出来事の一つ、出エジプトと関係がありました。

 今より三千年以上前。エジプトで起こったこと。当時のエジプトは近隣諸国に大きな影響を及ぼすことが出来る強国。そのエジプトで奴隷として生活するイスラエルの民が、奴隷から解放され、神様が与えると約束していたカナンの地へと行く。奴隷であったエジプトから出て、約束の地へ入る。これが出エジプトという出来事です。イスラエルの民は、この出来事を通して、真に頼るべき方は誰なのか、体験を通して教えられました。

 

 エジプトを出て、約束の地カナンに入る前。その移動途中に与えられたのがこの十戒でした。十戒が教えられる前、神様もこの出来事を確認して語られています。

 出エジプト記20章2節

わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

 

 「あなたがたは今まで奴隷でした。自分の願うような生き方を出来ない状況でした。しかし、今は奴隷の家から連れ出されたのです。これからは、あなたの願うように生きられるのです。さあ、どのように生きたら良いのか、教えましょう。」このようにして、十戒は語られました。

 この順番が大切です。つまり、「この十戒の生き方をしたら、あなたがたをエジプトから連れ出してあげましょう」ではなかった。「エジプトを連れ出されたあなたがたは、神の民として、このように生きましょう」と教えられた。キリスト教は恵みの宗教。行いが正しいから救うではない。救われた者として、正しい歩みを願うというあり方が、ここにも見出せるのです。

 

 十戒は、エジプトから出て約束の地に入るまでの間に与えられた。それはそうなのですが、聖書を開きますと、もう一つの箇所に十戒が出てきます。一つが出エジプト記二十章。もう一つが今日開いている申命記五章です。なぜ二つの箇所に出てくるのか。

 出エジプト記の二十章というのは、エジプトを出て間もない段階です。そこでモーセを通して神様から十戒が与えられました。それに対して申命記というのは、約束の地カナンに入る直前。エジプトを出たあと、四十年の荒野での生活を経て、約束の地を前に老モーセが説教をする。その説教の中で、十戒が出てくるのです。そもそも「申命記」という名前は、重ねて命じるという意味でした。

このようなわけで、二つの箇所に出てくることは不自然ではないのですが、実は出エジプト記と申命記の十戒には、少しだけ違いがあります。十戒の命令部分は同じなのですが、戒めを守るように言われている理由部分で違いがあるのです。それも私たちが今日確認しようとしている第五戒がそれに当たります。どのように違うのか。最後に確認いたします。

 

 もう一つ、聖書を読む上で覚えておきたいのは、聖書は自分に語られたものとして受けとめることが大事です。この言葉は、あの人にこそ聞いてもらいたい。あの人は、この言葉に従うべきであると思うのは、多くの場合、誤った聖書の読み方です。神様は私に何を願っておられるのか。私はどのように生きるべきなのか、考えながら読むのです。

 つまり、子どもに対して、聖書には「父と母を敬え。」とあるのだから、あなたは私に従いなさいと迫る。または、あの人は父や母を敬っていないと裁くことのないようにと確認しておきます。

 

 以上、長い前口上になりましたが、十戒についてのいくつかのことを覚えながら、第五戒に焦点を当てたいと思います。

 申命記5章16節

「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」

 

 十戒は、前半四つが、いかに神様を愛するのか。後半六つが、いかに隣人を愛するのか、教えるもの。この第五戒は、いかに隣人を愛するのか、第一の教えとなります。

「父と母を敬え。」敬うとは、心と言葉と行いにおいて、敬意を払うこと。祈ること。良い点を見習うこと。正当な命令と忠告に聞き従うこと。父と母の弱さを忍び、愛をもって包むこと。(ウェストミンスター大教理問答問127・答により詳しい敬うことが記されています。)

聖書の言葉は自分に語られたものとして受け止めるとしたら、まずは「子ども」として受けとめることになります。自分が何歳であろうとも、子どもとしてこの言葉に従うのです。今の自分が、「父と母を敬う」としたら、どうしたら良いのか。

「父と母を敬う」具体的な生き方は、年齢や状況によって変わります。自分が幼い時に親を敬うのと、自分が歳を重ねてから敬うのでは、敬い方に違いがあります。父と母に会える状態で敬うのか、既に天に召された父と母を敬うのか、敬い方に違いがあります。皆様は、父と母を敬うことが出来ているでしょうか。どのように父と母を敬うでしょうか。

 

 今の私の場合はどうなのか。どうすることが父と母を敬うことなのか。説教を準備しながら真剣に考えてみました。

母は数年前に軽度のアルツハイマーと診断され、少しずつ症状が進行している状況です。体は比較的強いのですが、会話は繰り返しが多くなり、出来ることも少なくなっていく。父は昨年、大腿骨を骨折しました。足は回復したのですが、体を支えていた手に激しい痛みが出るようになり、寝ているところから起き上がる、椅子から立つ度に、痛みで顔をしかめています。父は千葉で牧師をしていますが、傍目にはよく続けられていると思う状況。母は要介護1、父は要支援2と認定され、まさに老老介護の状態。

 四日市に住む私が、千葉に住むこの父と母を敬う。どうしたら良いのか。祈りつつ、聖書を読みつつ、私の心に出てきた思いは、次の聖書の言葉を胸に、一度会いに行くことでした。

 箴言23章22節

「あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない。」

 

 先の月曜・火曜と出張の際に、スケジュールとしてはかなり無理をしつつ、会いに行きました。ともかく、父の言うことをよく聞くこと。母が何度同じ話をしようとも、さげすむことなく、初めて話をするように接する決意をもって。顔を合わせて過ごせたのは一時間強だと思いますが、とても幸いな時間を過ごしました。何か特別なことがあったわけではありません。御言葉にしたがって、神様が祝福して下さったのだと思います。

 今回のことは、良かったこととして分かち合うことが出来ましたが、必ずしも、父と母を敬うことが出来るわけではありません。これまで、どれだけ敬ってこなかったか。また、これで終わりではなく、父と母を敬う歩みは、これからも続きます。今の自分にとって、「父と母を敬え。」との教えに従うのは、どのようなことなのか。考え続ける歩みを、皆様とともに送りたいと願います。

 

 この「父と母を敬え。」との教えは、子どもとしてだけでなく、親として従う言葉でもあります。今、親である者も、やがて親となることを目指す者、子どもに敬われる親となることに取り組むのです。

 敬われる親を目指すとは、どのような生き方でしょうか。子どもを守り、心と体に必要なものを用意すること。祈り、教え、戒めること。模範的な態度で信仰生活を送ること。親としての威厳を保つこと。(ウェストミンスター大教理問答問129・答により詳しい親としての取り組むべきことが記されています。)

 このことも年齢や状況によって、具体的な取り組みは変わると思います。今の自分が取り組むべきことは何か、祈りと御言葉によって、考える必要があります。今日、親という立場で、「父と母を敬え。」という御言葉に従う時、皆様は何をするでしょうか。

 

 ところで「父と母を敬え。」という教えは、人によっては大きな苦しみを引き起こします。聖書は「父と母を敬う」ように、教えている。しかし、自分はどうしても父母を敬うことが出来ない。父母と関わろうとすると、苦しくてしょうがないという方。親子関係で苦しんでこられた方。壮絶な体験をしてきた方。他の人には理解出来ない苦しみがある方がいます。あるいは、これまでの歩みの中で、親子関係がこじれてしまった。今さら「敬われる親」として生きることは難しいと感じる方もいます。どちらも少数ではなく、多くの人が親子関係で傷つき、苦しんでいます。キリスト教は良い宗教、クリスチャンになりたい気持ちもあるけれども、自分は父と母を敬うことは出来ないから、クリスチャンにはなれないと言われる方もいます。日本の状況を考えると、これから益々、親子関係で苦しむ人が増えるのではないかと想像出来ます。

 この点、皆さまの中で、特に葛藤なく、親を敬うことが出来る。敬われる親を目指して生きたいと思えるという方がいるとすれば、それは大変大きな恵みを神様から頂いているということです。それは、当たり前のことではなく神様からの大きな恵み頂いているということ。感謝すべき事柄です。

 

 それはそれとしまして、「父と母を敬うこと」「敬われる親となる」ことが難しいと感じる場合。そうなれれば良いけど、取り組む気力も沸かないという場合。どうしたら良いでしょうか。私たちが覚えておかなければならないのは、十戒は、救いの条件として語られたものではなく、救われた者の生き方が語られているということです。

 父と母を敬うこと。子どもを愛することが出来ない。その罪のためにも、イエス・キリストは十字架にかかって下さったのです。その状態から救い出すために。聖書の教える、幸いな人生を生きることが出来るようにと、私たちに永遠のいのちを注いで下さったのです。

 今も、罪の影響がありますので、十戒の全てをそのまま守れるわけではありません。しかし、イエス・キリストを通して恵みを頂いているのも確かです。聖霊なる神様と生きることが許され、どのように生きたら良いのか、目指すべき方向が定かになりました。

 つまり、この「父と母を敬え。」という教えを、私たちは救われた者として取り組むべきだということです。罪にまみれた私には、もともと出来ないことだけれども、イエス様がさせて下さる。その確信に立って、「父と母を敬え。」との教えに向き合いたいのです。

 

 エペソ人への手紙2章10節

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

 

 このように確認した上で、それでも父母を敬うことを難しく、どのように取り組めば良いか分からない方のために、いくつかお勧めしたいことがあります。簡単に紹介しますと、

・100か0かではなく、敬える点を探す。

 完全に敬うとか、全く軽蔑する、のどちらかではなく、この点は敬える部分を探すところから始めるのはどうでしょうか。

・ある程度、距離をとる。

 顔を合わせて何かをするのが辛い時は、距離をおいて祈ることから始めるのはどうでしょうか。

・御言葉に従えない時に、自分を責め過ぎないように。

 父母を敬えない。子どもを愛せない時に、それが出来ない自分を責めて終わることのないように。その自分のために、イエス様がしてくださったことに目を留めるのはいかがでしょうか。

・親の悪いと思う部分を、変えようと思わない。その責任は親にありますから。

 親の悪い部分をひどく憎み、変えたいと思っても、自分には変える力がないことを認めること。悪いと思う部分があっても、自分には責任がないことを確認するのはいかがでしょうか。

 それぞれの状況に応じて、可能なことから、取り組むことが出来ますように。

 

 以上、十戒のうち第五戒を確認してきました。最後に、出エジプト記二十章と、申命記五章の十戒の違いを確認して、終わりにしたいと思います。

 出エジプト記20章12節

「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」

 

 これがエジプト脱出直後、神様からモーセに語られた言葉です。これより約四十年後、約束の地に入る直前、モーセから神の民に語られた言葉。(モーセは、主が語られた言葉として告げるのですが。)

申命記5章16節

「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」

 

 命じていることは同じ。違いはごく僅か。申命記には、なぜ父と母を敬うのか、その理由として、「しあわせになるため」と付け加えられていました。最晩年のモーセが、次世代の者たちに向けて語った言葉。何としても、しあわせな人生を送るようにと願って、この第五戒が語られた。このモーセの熱意と息吹を感じつつ、私たち皆で、救われた者として、「父と母を敬え。」との教えに従いたいと思います。

 

2015年6月14日日曜日

ヨハネの福音書19章17節~27節 「ご自分で十字架を負い」

これまで礼拝において読み進めてきたヨハネの福音書。ここ数回にわたり、私たちはその最後の部分、イエス・キリストが十字架直前に受けた様々な苦しみを見てきました。ユダの裏切り、逮捕、弟子たちの離散、ペテロの否認、ユダヤ教裁判、ローマ総督ピラトによる裁判と続き、今日はいよいよ十字架の場面となります。
先回のことを思い起こして頂きたいと思います。イエス無罪を確信するピラトは何とかしてイエス様を釈放しようとつとめました。しかし、「あなたは、ユダヤの王を自称するこのイエスを釈放し、皇帝に背くつもりか」とユダヤ人に追及され、我が身の安全を優先。ついにイエス様を、怒りと悪意に満ちた人々の手に渡してしまったのです。
そして、ユダヤ人の手に渡されたイエス様はどうしたのか。イエス様は、自ら十字架を負い、処刑の場所ゴルゴダに出て行かれたと言うのです。

19:17「彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。」

この場面、他の福音書を見ますと、少し違った印象を受けます。ユダヤ人の手に渡されたイエス様は人々に散々苦しめられ、嘲られ、ローマ人兵士に十字架の木を背負わされた末、ゴルゴダまで連行されます。途中力尽きて倒れたイエス様に代わり、そこに居合わせたシモンと言う男が十字架を背負わされと言う出来事も描かれています。つまり、他の福音書では、イエス様が受けた苦しみの重さ、深さに焦点があてられていました。
それに対し、ヨハネはそうしたエピソードを省き、イエス様がご自分で十字架を負い、ゴルゴダに前進してゆく姿を描いています。つまり、ヨハネの福音書は、十字架への道を、自ら選び歩まれたイエス様の姿を強調していると言えるでしょうか。
これ以前、十字架の死について、イエス様が言われたことばが残っています。

10:17~18「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

「わたしには自分からいのちを捨てる権威がある」と言われたイエス様。イエス様にとって十字架は、心から天の父に従い、私たち罪人を愛すると言う自由な思いから生まれた決断であり、選択でした。決して、ユダヤ人やローマ人兵士に強いられたものではなかったのです。ここには霊的な王としてのイエス様の姿が表れているとも言われます。事実、それは思わぬ形で証しされました。

19:18~22「彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」

ゴルゴダの丘には、イエス様を真ん中に三本の十字架が立てられました。まるで三人は同じ穴のむじなと言わんばかり。イエス様が犯罪人と同列に扱われたのです。この様な酷い扱いは、ユダヤ人がイエス様を辱めるために要求したことでしたが、既に旧約聖書には、来るべき救い主が犯罪人と等しく扱われ、その仲間に数えられると預言されていました。

イザヤ53:12「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」

イエス様の十字架は、ユダヤ人の悪意により犯罪人の真ん中に据えられましたが、その姿は、救い主が罪人の代表として裁かれ死ぬという、神様の預言、ご計画が実現したことを示すものだったのです。
さらに、ピラトが書いた「ユダヤ人の王」と言う罪状書きは十字架上に掲げられ、その頃都エルサレムに世界各地から集まっていた人々の目に触れることになりました。ヘブル語はユダヤ人に、ラテン語はローマ人に、ギリシャ語は当時地中海世界全体で広く使われていた言語ですから、あらゆる人がこの罪状書きを理解することができた訳です。
勿論、ピラト自身本気でイエス様をユダヤ人の王と考えていたわけではありません。彼はイエス様釈放と言う自分の提案を撥ね付けたユダヤ人を憎く思い、彼らに対する嫌がらせとして、これを書いたにすぎません。事実、ユダヤ人は猛反発しますが、時すでに遅し。ピラトは頑固な態度を翻すことはなかったのです。
こうして、言わばピラトとユダヤ人の対立、喧嘩から生まれたような罪状書きでしたが、それがピラトやユダヤ人の思いを越え、イエス様が全世界のための救い主であり、王であることを示すものとなったと、ヨハネの福音書は教えています。
人の眼には無力、悲惨と見えるイエス様が、人類の罪を贖い、世界中の人々を神様との親しい関係へ回復すると言う神様のご計画を、着々と実行してゆく姿を、私たちここに見ることができますし、見るべきでしょう。
この様にして、イエス様は霊的な王として十字架に着座されました。しかし、その力は専ら罪人のため、悲しむ者のために使われたことが次に語られます。イエス様は徹底的に人を愛し、人に仕える王であったのです。
19:23,24「さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。」

当時十字架刑に立ち会う兵士たちには、囚人が身につける物をただで貰えると言う特権がありました。ですから、彼らは容赦なくイエス様の体から上着や帯などを剥ぎ取り、分け合います。下着だけは縫い目のない一枚ものであったため、くじ引きとなりました。
昔も今も、人の体から物を剥ぎ取り、裸にすると言うことは屈辱以外の何ものでもありません。旧約聖書の詩篇にも、ダビデ王が敵から辱めを受けた時の苦しみを訴えていることばがあります。ここに引用された詩篇22篇24節「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」がそれです。このことばで、ヨハネの福音書は、イエス様もこの時同じ辱めにより、深く傷つき、苦しんでおられることを伝えています。
他方、ルカの福音書には、兵士たちの背後で祈るイエス様の姿が記されています。

ルカ23:34「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」

イエス様は、ご自身が受けた辱めにより深く苦しんでおられました。しかし、その様な中で、私利私欲に目を曇らされ、自分の罪に気がつかず、愚かな行いに興じる人々を心から憐れみ、彼らを赦してくださるようにと天の父にとりなし、祈られたのです。
また、十字架の傍らには、兵士とは対照的にイエス様を見守り続ける、三人の女性たちがいました。

19:25~27「兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」

私たちが使用している新改訳聖書では、ここに四人の女性がいたように書かれています。しかし、イエスの母の姉妹とクロパの妻マリヤを同一の女性と考え、合計三人とするのが一般的とされます。
イエスの母とは言うまでもなく有名なマリヤ。その姉妹とはイエス様の弟子ヨハネとヤコブの母のことで、名前はやはりマリヤ、別名サロメ。もうひとりのマリヤは、イエス様に悪霊を追い出して頂いたマグダラのマリヤ。ヨハネ以外の男の弟子たちは皆逃げ去り、あのペテロでさえ弟子であることを否定した。それなのに、この三人のマリヤは十字架の側にとどまり続けたのです。
彼女たちの存在が、十字架で苦しむイエス様の心をどれ程励ましたことでしょう。人類の罪を贖う為、イエス様が成し遂げようとしておられるみ業を、自らそこにとどまり続けることによって助けた女性たち。彼女たちの愛の奉仕の大きさを思わずにはいられません。
しかし、三人の女性がイエス様を愛したように、イエス様も彼女たちを愛しておられました。イエス様が十字架上で語られたことばは全部で七つ。その中でただ一つ、女性に向けて語られたことばがここに残されています。イエス様は「女の方」と母マリヤに呼びかけ、「ごらんなさい。そこにあなたの息子がいます」とヨハネを示し、ヨハネに対しては「そこに、あなたの母がいます」とマリヤを託したのです。
マリヤの一生は苦難と試練の連続。心労が絶えることはなかったと思われます。そして、この時、マリヤは十字架に苦しむ我が子の姿を見て、引き裂かれんばかりの心の痛みと悲しみを感じていたことでしょう。そのマリヤを、イエス様は信頼する弟子ヨハネの家に預け、悲しみを癒すことができるようにと配慮されたのです。
こうして、ヨハネの福音書が描く十字架の場面を見てきた私たち。最後に確認したいことがふたつあります。
一つ目は、今日の前半の場面。総督ピラトとユダヤ人の対立が浮き彫りになる中、人類の罪を贖うと言う神様のご計画が、イエス・キリストにより着実に前進、実現してゆく様を、私たち見ることができました。神様のご計画は必ずなる、誰も神様のご計画の実現を妨げることはできないと教えられるのです。
信仰とは、神様の約束、神様のご計画の実現を信じることです。そうだとすれば、神様にとって最も難しい、キリストの犠牲による罪の贖いが実現したのですから、後に残された約束の実現はさらに確実と、心から安心することができるのではないでしょうか。
イエス・キリストを信じる者は、今どれ程罪をもっていても、必ずキリストに似た者へと造り変えられると言う約束。イエス・キリストを信じる者は、神様によって新しくされた世界、愛と義と平和に満ちる天の御国へ迎えて頂けると言う約束。これらの約束をそのまま信じる信仰を頂いて、私たち日々歩めたらと思います。
二つ目は、今日の後半の場面において現されたイエス・キリストの愛を思い、その愛に憩うことです。十字架のもと上着や下着を奪い合う浅ましい兵士に心痛めながらも、彼らのためとりなし、祈られたイエス・キリストの愛。また、愛する者の苦しむ姿に自らも苦しみ、悩む女性の心を思い遣り、配慮を忘れなかったイエス様の愛。
私たちもあの兵士の様に、自らの罪に気がつかず、愚かなこと酷いことを行って人を責め、傷つけ、苦しめたことがあるのではないでしょうか。愛する者のため苦しみ悩むこともあるでしょう。しかし、どちらの私たちも等しくイエス・キリストから祈られ、愛されているのです。この愛を受けとりたい。この愛に包まれて歩むことのできる幸いを、心から感謝する者でありたいと思います。今日の聖句です。


ローマ5:8「しかしまだ私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

2015年6月7日日曜日

ヨハネの福音書19章1節~16節 「イエス・キリストの沈黙」

これまで礼拝において読み進めてきたヨハネの福音書。ここ数回にわたり、私たちはその最後の部分、イエス・キリストの受難、イエス様が十字架直前に受けた様々な苦しみを見てきました。ユダの裏切り、逮捕、弟子たちの離散、ペテロの否認、ユダヤ教の裁判と続き、先回からローマ総督ピラトによる裁判の場面に目を留めています。
これまでの流れを振り返ると、ユダヤ教指導者による裁判の末死刑に定められたイエス様は、今度はローマ式裁判を受けるため、夜明けとともに総督官邸へ連れてこられました。当時、ユダヤはローマに占領されており、ユダヤ人は勝手に死刑執行ができなかったため、ローマから遣わされた総督ピラトの許可を得ようと考えたのです。
 しかし、訴えを聞き、訊問する内にイエス様は無罪とピラトは判断しました。ユダヤ教指導者たちは、妬みにかられてイエス様を十字架につけようとしていると見抜いたのです。そこで、ピラトが打ったのが、過越しの祭りの時期によく行われていた恩赦、犯罪者を特別に釈放する制度を使うと言う一手でした。ピラトは何とかしてイエス様を釈放しようとしたのです。
しかし、怒りに狂う人々は何と当時名うての犯罪者バラバを釈放してほしいと叫び続けたため、この試みは失敗となります。けれども、ピラトはそれで諦めはしなかったようです。部下の兵士にイエス鞭打ちを命じています。

19:1~3「そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。」

当時の鞭打ち刑は、先端についていた金具が肉に突き刺さり、肉を剥ぐと言う残酷なもの。何故、ピラトは無罪と確信するイエス様に対する鞭打ちを命じ、兵士たちが嘲り、辱めることを許したのでしょうか。茨の冠をかぶり、王の着物とされた紫色の着物を着せられ、王様万歳とからかわれ、平手で打たれる、これ程惨めで、無力な人の姿を見ることで、さすがのユダヤ人の心も和らぎ、イエス様を赦すのではと、ピラトが考えた上での作戦だったと思われます。

19:4、5「ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。」

「さあ、この人です」は、元のことばでは「この人を見よ」となります。「この人を見なさい。この人はあなたがたが恐れるような人物でない。惨めで、無力な王にすぎない」。そう、ピラトはユダヤ教指導者たちに言いたかったのでしょう。ここまですれば、ユダヤ人たちの怒りも収まるに違いないと考えたのです。しかし、ピラトはまたも人々の心を読み違えました。イエス様の姿を見たユダヤ人は憐れむどころか、益々激しく「十字架につけろ」と叫ぶ始末です。

19:6a「祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。」

ほとほと手を焼くピラトは、「あなたがたがこの人を引き取り、十字架にでも何でもかければよいのでは」と突き放そうとします。

19:6b~8「ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。」

イエス様無罪を主張し、十字架刑を執行しようとしないピラトの姿を見て、ユダヤ人は告発の内容を変更。今まではローマ皇帝に背くユダヤ人の王と名乗った男としてイエス様を訴えていましたが、今度は神の子と自称した男として訴えます。手を変え品を変え、どの様な手段を使ってもイエス様を十字架の死に追いやろうとする悪意と怒りを感じます。
それにしても、「ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた」とあるのは何故でしょうか。ピラトは誰を恐れたのか。激しい怒りを示して迫るユダヤ人か、それともイエス様か。二つの可能性が考えられますが、歴史の記録に残るピラトは相当残酷な為政者で、ユダヤ人を恐れていた風には見えません。ピラトが恐れたのは、これ程さげすまれ、苦しめられながら、黙々と忍耐するイエス様の方であったと考えたいところです。

19:9~11「そして、また官邸にはいって、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」」

「あなたはどこの人ですか」とは、出身地を尋ねたことばではありません。「あなたは、天から来た神の子ですか」との問いでした。勿論、多神教の世界に生きていたピラトですから、聖書的な意味での神の子を信じていたわけではないでしょう。しかし、ピラトがイエス様の態度をみて、普通の人間とは全く違う存在感を覚えていたことが伺われます。
そして、何一つ答えず沈黙されるイエス様の様子に恐れを深めたのでしょうか。「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを知らないのか」と、殊更自分の権威を示そうとするピラトです。けれども、イエス様は怯まない。むしろ、「もしそれが上から、神から与えられているのでなかったら、あなたには何の権威もない」と、静かに語るイエス様の方に真の権威を見ることができる。その様な場面です。
この様に、何とかイエス様を釈放しようと努力してきたピラトですが、ユダヤ人たちが発した最後のことばにより、大切なつとめを放棄することになります。

19:12~16「こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。」

「もしこの人を釈放するなら、カイザルの味方ではない」と聞いたピラト。もしイエス様を釈放し、自分が皇帝に背く者として訴えられたら厄介なことになると考えたのでしょう。この時ピラトは良心を捨て、我が身の安全を優先したと思われます。遂には「十字架につけろ」と叫ぶ声の力に押されるように、イエス様を引き渡してしまったのです。
今日私たちが見た裁判は、ピラトの様な残酷な人物の眼にもイエス様に罪がないのは明白であったこと、逆に言えば、ユダヤ人の訴えがいかに不当なものか、彼らの妬みや怒りによる行動がいかに酷い罪であったかを物語っています。同時に、イエス様と出会い心動かされたピラトが、最後には自分の身を守るため正しいことを実行できなかった姿を通して人間の弱さ、脆さを教えられるところでもあります。
こうして、ユダヤ人とピラト、人間の罪が明らかにされた今日の場面、私たちが最後に確認したいのは、イエス様はどのようなお方であられたのかということです。
もう一度目を向けてもらいたいのですが、今日の9節で、ピラトに「どこから来たのか」と問われたイエス様が「何の答えもされなかった」と記されています。これを、教会は旧約聖書イザヤ書53章7節8節に示されている苦難のしもべ、真の救い主に関する預言の成就と伝統的に考えてきました。

イザヤ53:7、8「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」

痛めつけられてもやり返さない。苦しめられても反撃しない。むしろ、黙々と痛み、苦しみを忍耐するイエス様は、ご自分を痛めつける者、ご自分を苦しめる者たちのため、十字架に死ぬことを決めておられたということです。イエス様の沈黙は、罪人のためにいのちを捨てる十字架の愛を示していた。これをしっかりと覚えておきたいのです。
ユダヤ人の罪、ピラトの罪は決して他人事ではありません。心の中で人をさばき、人を嘲る。心の思いにおける殺人を何度私たちは犯してきたでしょうか。攻撃的なことばや感情的に責める態度で、一体何人の人を傷つけてきたことでしょうか。また、自分が不利になるのが嫌で、為すべき時為すべき正しいことをしてこなかった罪はないでしょうか。
イエス・キリストは、その様な私たちの罪を忍耐し、背負い、そのすべてを贖う為、十字架に死んでくださった。この十字架の愛に私たちはどれ程救われ、励まされ、平安を得てきたことか。これからも十字架の愛に支えられ、日々歩んでゆきたいと思います。

Ⅰヨハネ4:10「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」