2015年5月24日日曜日

ローマ人へ絵の手紙8章12節~25節 「真理に属する者は」

これまで礼拝において、私たちはヨハネの福音書を読み進めてきました。福音書は、イエス・キリストの生涯について書かれた書物ですが、今はイエス・キリストの受難、ユダの裏切り、逮捕、弟子たちの離散、ペテロの否認、裁判、鞭打ち等、十字架直イエス様が受けられた様々な苦難について見ているところです。
先回は、イエス様がユダヤ教大祭司のもとで受けた裁判の様子を見ましたが。今日目を向けるのは総督ピラトのもとでの裁判。この場面、イエス様は「わたしは真理を証しするためこの世に来た」と語りますが、私たちはイエス様が示された真理、人間本来の生き方について、ともに考えてみたいと思うのです。
さて、深夜に行われ、証人も存在しないという不法な裁判、ユダヤ教指導者による暗黒裁判の末死刑に定められたイエス様は、夜明けとともに総督官邸へ連れて行かれます。今度はローマ式裁判にかけられたのです。

18:28~31a「さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった。そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」」

 ここに登場する総督とは、ローマ皇帝がユダヤを治める為に遣わした行政官です。当時、ユダヤはローマに占領され、半植民地状態にありました。その為ユダヤ人には自分たちの王がなく、総督に支配されていました。イエス様の時代、総督をつとめていたのはピラト。数々の悪行でユダヤ人を苦しめた人物として記録に残されています。
 半植民地と言うのは、ユダヤ人にある程度の自治が認められたものの、重い税金を課された上、重要な政治的判断や死刑判決等に関しては、総督の許可がなければこれを実行することができなかったからです。今日の箇所にも、彼らがピラトに「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいない」と語っているのがその状況を示しています。
 ですから、当然ユダヤ教指導者とピラトの関係は良くなかったのです。余程のことがない限り、彼らが総督を訪れることはなく、たとえ訪れたとしても建物には入りませんでした。「彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった」とある通りです。
 神を知らない異邦人と交際するのは、宗教的に汚れること。まして、ユダヤで最も重要な過越しの祭りにおける食事が行われている最中でしたから、彼らは一歩たりとも官邸に入らず、門前でイエス様のことを訴えたらしいのです。
しかし、訴えを聞いたピラトは、「これはユダヤ人の宗教の問題であって、ローマの裁判にかけるようなものではない」と考えました。ユダヤ教指導者が死刑を決めた理由は、イエス様が神の御子、キリストであると自称し、神を汚した罪でしたから、ピラトがユダヤの宗教の問題と判断したのは尤もなこと。彼は「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい」と、イエス様を返そうとします。

18:31b、32「ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。」

先程も言いました様に、通常ユダヤ人に死刑執行の権限はありませんでした。ですから、彼らは飽く迄もピラトにイエス死刑を求め続け、退こうとはしなかったのです。しかし、実際はユダヤ人が総督の許可を得ずに死刑を行った記録が幾つか残っています。その様な場合総督は見てみぬふりをしたようですから、イエス様の場合も、ユダヤ人がその宗教法に従い、石打ちにより死刑を執行することも可能だったと考えられます。
それなら、何故ユダヤ人たちはローマの法律による刑罰を望んだのでしょうか。彼らが執拗にイエス処刑を総督ピラトに求めたのは、当時最も残酷で不名誉な死に方である十字架刑にイエス様を追い込むことにあったと考えられます。

申命記21:22,23「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」

ここにある様に、多くのユダヤ人にとって「木につるされて死ぬこと」は、神に呪われた者の証拠でした。彼らはイエス様をただ死に追いやるだけでなく、最も惨めな死に様に拘ったのです。そして、この思いが神様のご計画を実現させ、みこころが成就することとなったのです。事実、イエス様は十字架以前、次に様に言われました。

ヨハネ12:32,33「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」

「人の子、イエス様ご自身があげられるなら」とありますが、正にそれは「木にかけられて、地上からあげられる」ことを意味していました。出来事の表面上は、ユダヤ人の悪意によってイエス様が十字架に追いやられたと見えます。が、実際はイエス様が自ら十字架に死ぬ為、人間の悪意を用い、すべてを支配しておられたと言うことです。
こうして、ユダヤ人を門前払いすることのできなかったピラトは、やむなくイエス様尋問に取りかかります。

18:33~35「そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」」

あなたは自分の考えで「ユダヤ人の王なのか」と質問しているのか、それとも他の人に言われて質問しているのか。ピラトがしぶしぶ尋問に臨んでいることを、イエス様は見抜いていた様に思われます。それに対し「私はユダヤ人ではないでしょう」と答えたピラトは非常にイライラしているかに見えます。
他の福音書には、ピラトはユダヤ人の訴えが根拠の無いものであることに気がついていたとあります。イエス様自身がユダヤ人の王を自称したことも、ローマに反抗する様教えたこともなく、無罪と考えていたのです。しかし、それならそれで、何故イエス様が自己弁明をしないのか。不思議な思いでいたのでしょう。そこで、イエス様は戸惑うピラトの為、ご自身のことを証しされました。

18:36,37「イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

ここに描かれるのは、嘘の訴えで自分を亡き者にしようとするユダヤ人に怒りを現すことなく、また、自分のために一言の弁明もせず、凛としてピラトに証しをするイエス様のお姿です。
最初にも言いましたが、ピラトと言う人は政治的な駆け引きに長けた総督であり、ユダヤを治める為、敢えて様々な悪を為してきた現実的で悪しき為政者でした。他の福音書には、この裁判がイエス様に対するユダヤ人の妬みから生まれた茶番劇であることに、彼が気がついていたことが記されています。
その様なピラトにとって、目の前にいるイエス様のお姿は驚きであり、不思議であったでしょう。自分を不当に苦しめる人々に怒りを示さず、反撃も反論もしないイエス様。偶々尋問することになった者のため、「わたしは真理の証しをするために生まれ、この世に来た」と、大切な使命について語るイエス様。「この人は、何故これ程まで落ち着き、凛としていられるのか」。今まで一度も出会ったことのないタイプの人に出会ったピラト。その心には、イエス様ご自身への関心が生れてきたように見えます。

18:38~40「ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ。」と言った。このバラバは強盗であった。」

今まで一度も考えたことも、発したこともなかったであろう「真理とは何か」という問いかけをイエス様にしたピラト。ユダヤ最大の祭り、過越しの祭りに因んで恩赦を提案し、イエス様を釈放しようとしたピラト。この様な姿は、現実的な政治家で、真理などに無関心であったピラトがイエス様と出会い、何かしらの影響を受けたのではと、思わせるものです。しかし、この小さな変化もピラトの心の中でやがて萎び、彼が最終的にイエス様の身をユダヤ人の手に委ねてしまうのは、非常に残念な気がします。
さて、こうして読み終えた今日の箇所。最後に心を向けたいのは、「わたしの国はこの世のものではありません。…わたしが王であることはあなたが言うとおりです。わたしは真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」と言われた、イエス様のことばです。
イエス様は、わたしの国はこの世のものでないと言われました。わたしは真理を証しするためこの世に来た王であるとも語りました。真理とはイエス様ご自身、あるいはイエス様に見られる本来の人間の生き方を意味しています。
それでは、この世の国に属する人の生き方とは何でしょうか。真理すなわちイエス様に罪贖われ、イエス様に属する人の生き方とは何でしょうか。
この世の国に属する人の生き方は、ユダヤ教指導者の態度、行動の中に見ることができます。彼らはイエス様に対して非常に支配的でした。イエス様を思い通りにしようと、不当な逮捕、証人なき裁判、嘘で塗り固めた告発など、様々な方法を使いイエス様を責め、攻撃し、倒そうとしたのです。
また、彼らは自分たちの思い通りにならないイエス様にイライラし、怒り、そんなイエス様が民衆に人気があることを非常に妬んでいました。ピラトに一目で見抜かれる程、彼らは怒り、妬みの感情に支配され行動していたのです。
しかし、彼らの姿は私たちにとって他人でしょうか。私たちの中にも、身近な人を自分の思い通りにしようとする性質、それが叶わないとイライラしたり腹を立てたり、様々な方法で相手を責め、攻撃する性質がないでしょうか。怒りや妬みの感情に縛られ支配されたまま考え、行動してしまうことがないでしょうか。
親子、夫婦、教会の兄弟姉妹、職場。それらの関係の中で、普段の私たちのことばや態度に、これらの性質が表れていることに気がつきたいと思います。それが原因で様々な対立が起こること、いかに多いことかを省みる必要があるのではないでしょうか。
それに対して、イエス様はその様な性質から自由でした。弟子たちがご自分のもとから離れ去った時も、ペテロが弟子であることを否定した時も心は非常に痛んだでしょうが、彼らを責めませんでした。ユダヤ人たちの不当な逮捕、裁判、告発に怒りを覚えたでしょうが、怒りの感情に支配され反撃することはされなかったのです。
イエス様は、抱いて当然の感情や思いを自制する自由、人を支配するような態度や行動を捨てる自由をもっておられたということです。相手の自由を重んじ、愛と忍耐をもって人を真理に導く。それがイエス様の生き方なのです。聖書は、この様な自由を与える為、イエス様は十字架に死に、私たちの罪を贖ってくださったと教えています。真理であるイエス様に属する者として、私たち皆がこの様な生き方を目指したいと思います。

ガラテヤ5:13,14「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。」

 

2015年5月17日日曜日

イザヤ書6章1節~8節 「一書説教 イザヤ書 ~遣わされた者として~」

旧約聖書は大きく四つに分類出来ます。律法(五つの書)、歴史(十二の書)、詩(五つの書)、預言(十七の書)の四つ。一書説教の歩みでは、前回の雅歌で詩の書が終わり、今日からいよいよ預言書に足を踏み入れることになります。
二十三回目の一書説教、イザヤ書です。聖書全体(六十六巻)から見れば、ここから中盤。今一度、気持ちを引き締めて、聖書を読む歩みに取り組みたいと思います。毎回お勧めしていることですが、一書説教の際は、扱われた書を読むことに、是非とも取り組まれますように。一書説教が進むにつれ、皆で聖書を読む喜びを味わいたいと思います。

 これから十七の預言書を読み進める私たち。預言書を読む上で気を付けておきたいことを三つ確認します。
 一つ目は、預言と予言の違いです。「よげん」と聞くと、日本人の多くは予め言うという意味の「予言」をイメージすると言われます。「予言」とは未来に起こることを語ること。しかし、私たちがこれから読む預言は、言葉を預かるという意味の「預言」。神様より言葉を預かった者が語った言葉。神様からのメッセージ。神様からの説教。そのため「預言」は、(語られた時から考えて)過去のことも、その当時のことも、未来のことも語られます。

預言書を読む上で、気を付けたいこと。二つ目は、誰が、どの時代、どのような人々に語ったものなのかを把握することです。同じ言葉でも、どのような状況で語られたのかによって、意味が変わります。預言が語られた背景は、主に歴史書に記されているため、どの預言書を読む際にも、歴史書とともに読むことで理解が深まると言えます。

預言書を読む上で気を付けたいこと。三つ目は、預言の言葉が、神様から神の民への言葉であることを意識することです。
 神様と神の民について、歴史書の時に繰り返し扱いましたが、今一度確認いたします。人間が堕落し、悲惨な状態の世界を、神様は祝福されます。その基本的な方針は、神の民を通して、世界を祝福するというもの。神の民が、人間のあるべき生き方を示す。どのように神様を愛し、どのように隣人を愛するのか、神の民を通して世界中の人が知るようになる。それが、神様が世界を祝福する基本的な方針でした。
 その神の民に選ばれたのが、アブラハムとその子孫。(キリストの十字架と復活以降、キリストを信じる私たちが神の民と教えられています。)そして、どのように神様を愛し、隣人を愛したら良いのか、具体的なことは出エジプトの時代に明確に語られました。
神の民は、いかに神様に愛されているのか。
神の民として正しく生きていく時に、恵みが大きくあること。(その恵みの殆どは、いのち、健康、繁栄、豊穣、尊敬、安全のどれかに当てはまる事柄として表現されます。)
神の民としての生き方を捨てる時、警告(呪い)があること。(その警告の殆どは、死、病気、干ばつ、欠乏、危険、破壊、敗北、国外追放、貧困、不名誉のどれかに当てはまる事柄として宣言されています。)
やがて神の民を完全に救う、救い主が来ることが、モーセを通して教えられました。

 アブラハムの子孫であるイスラエルの民は、出エジプト以降、民族として、国家として大きくなりますが、度々、神の民としての使命を果たしません。そのようなイスラエルの民に、神様から遣わされたのが預言者たちです。

 語り口調(文調)、語る内容は預言者によって様々。一人の預言者でも、時期や語る対象によって、口調(文調)や、その内容が大きく変わることがあります。しかし基本的には、神様から神の民に語られた内容。
 預言者たちが語った内容は、モーセを通して語られたものと本質的には同じものとなります。つまり、いかに神様が神の民を愛しているのか。神の民として歩む時に祝福は大きく、神の民として歩まない時に呪いが大きい。そして、やがて救い主が来られるというメッセージを、それぞれの預言者が、時代や状況に合わせて、それぞれの表現で語ったのです。
 どの預言書を読む時にも、私たちは自分も神の民であることを覚えて、いかに神様に愛されているのか、神の民として生きることがいかに大事な使命であるのか、私たちの救い主がどのようなお方なのか、考えたいと思います。

 今日扱うのはイザヤ書。全六十六章に渡る大預言書。有名な聖句が多数。キリストを指し示す預言も多数。新約聖書における引用も多数。その内容の深さ、広さから、イザヤ書を小聖書と呼ぶ人もいます。多くの人に愛された預言書。
イザヤはどのような時代に活躍したのか。次のように記されています。
 イザヤ1章1節
「アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。」

 ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代。つまりイザヤは、BC740年位から六十年近く、南ユダ王国を中心に活躍したと考えられます。ウジヤと言えば、その業績は凄まじいもので、多くの軍隊を持ち、近隣諸国に勝利し、その名声はエジプトにまで届いたと言われる人物。南ユダに繁栄をもたらした大王。
 ところがウジヤ王の後から、北の大国アッシリアが力を増し、国際情勢は不安定となります。そして遂には北イスラエルがアッシリアに滅ぼされていく。安定から国家存亡の危機迎える、激動の時代。王も民も右往左往する中、神の民としてどのように生きるべきなのか。長い期間、警告と励ましを発し続けるのがイザヤの役割となります。

 イザヤ書をどのように概観するのか。(色々なアイデアが提案されていて、これこそが正しいと言うことは出来ませんが)五つに分けるのが良いと思います。
 第一部は一章から十二章まで。主に南ユダの人たちに対する言葉です。神の民である、南ユダの者たちが、いかに不従順であるのか。社会悪がはびこり、宗教も退廃。国の危機に際して、主なる神様でないものを頼ろうとする王。その神の民に、神様の愛、将来の約束が語られつつも、その罪は裁かれなければならないと断罪のメッセージも語られる。
 神様の愛、神の民の使命、やがてこられる救い主について。どのメッセージも確認出来ますが、全体的には警告、忠告、裁きのメッセージが多い第一部です。
 イエス様の誕生を指し示す預言として有名な「処女が身ごもり男の子を生み、その名をインマヌエルと名付ける」(七章十四節)とか、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。主権はその肩にあり、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる」(九章六節)は、この第一部に出てくる言葉です。

 第二部は十三章から二十三章まで。主に南ユダ以外の国について、断罪の言葉が続きます。バビロン、アッシリア、ペリシテ、モアブ、ダマスコ、クシュ、エジプト、エドム、アラビヤ、ツロ、シドンへの言葉。南ユダから見て、当時の主要な国々が網羅されています。
 近隣諸国への断罪のメッセージを、南ユダの人たちはどのような思いで聞いたでしょうか。世界を支配される方が誰であるのか。神の民を攻撃し圧迫する者たちに対して、神様がどのように報いるのか。世界のあるべき姿はどのようなものなのか。近隣諸国への断罪の中にも、重要なメッセージがいくつも含まれていました。

 第三部は二十四章から三十九章まで。第一部で主に南ユダの人たちに関するもの。第二部で近隣諸国に関するメッセージが語られ、第三部では国や民族の隔たりなく、世界全体が取り上げられて、裁きと、神様のなさろうとしていることが語られます。南ユダ、近隣諸国、全世界へと、イザヤの視点が広がっているのが分かります。語り口調にも変化が見られ、象徴的な表現が多くなるところもあります。
 なお、この第三部の最後の部分には、イザヤの語った言葉ではなく、アッシリアが南ユダを攻撃しに来た際の、歴史的出来事が記録されています。善王ヒゼキヤと、預言者イザヤが二人三脚となって、存亡の危機に立ち向かう場面。列王記、歴代誌にも記されていた内容で、聖書を読み進めている私たちからすると三回目となります。

 第四部は四十章から五十五章まで。ここから雰囲気が大きく変わります。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。」と始まる四十章。これまで断罪、警告の言葉が多かったのに対して、ここから慰め、励ましの言葉が多くなります。
神の民のとして使命を果たさない結果、捕囚として捕われることがあっても、そこから解放されるという約束。それはやがておこるバビロン捕囚と、解放を伝えるとともに、イエス・キリストがして下さる罪の奴隷からの解放をも指し示す内容となります。
 極めて有名な、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ四十三章四節)という言葉や、キリストの十字架の場面を如実にあらわしている苦難のしもべ(五十三章)は、この第四部に含まれます。

 第五部は五十六章から六十六章まで。第四部で捕われからの解放、新たに神の民として歩むことが語られた後、この第五部では、新しくされた神の民がいかに生きるべきなのか。再度、あるべき神の民の生き方が示され、それによって世界がどのように祝福されるのか、語られます。明るさが増す印象。
 その終わりが印象的で、神様に従う者の祝福の大きさと、そむく者への罰の大きさが強調されて閉じられます。
 イザヤ66章22節~24節
「『わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、――主の御告げ。――あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る。』と主は仰せられる。『彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。』」

 全体を概観して良く分かるのは、イザヤ書は表現も多様、内容も豊富。イザヤ書全体で、一つのメッセージがあるというより、色々なテーマ、メッセージが盛り込まれている書。(イザヤ書には聖書の主要なテーマが全て入っているとして、小聖書と呼ぶ人もいます。)
 一読して大いに励まされる言葉もあれば、自分の罪深さを糾弾され恐れを頂く言葉もあります。新約聖書を持つ者でないと、語られている内容の意味が理解出来ないのではないか。当時の人たちは、どのように聞いていたのだろうかと疑問に思う言葉もあれば、今の私たちが読んでも良く意味の分からない言葉もあります。大きく偉大なイザヤ書。心して読み進めていきたいと思います。

 最後に、イザヤが預言者として神様に召された(選ばれ任命された)場面を確認し、イザヤ書の一つのまとめとしたいと思います。
 イザヤ6章1節~3節
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』」

 大王ウジヤの死により空いた王座。不安が漂うその時、イザヤは全く異なる王座。天の王座を目にします。神殿にいるイザヤが見た幻なのか。神殿ごと幻だったのか。高く上げられた王座に座しておられる主を見るのです。
 神を見る。これは大変なことでした。何故なら、罪ある者が直接神様を見ることは許されないこと。もし、罪ある者が神様と交わろうものなら死んでしまうというのが、聖書の教えていることでした。(出エジプト三十三章、Ⅱサムエル六章など)

 そのためイザヤも死を覚悟して言いました。
イザヤ6章5節
「そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』」

 罪ある私。汚れた民の中で生きている私が、主なる神様を見てしまった。ああ、もうだめだ、との声。本当ならばここでイザヤは死ぬはずでした。ところがここで、罪ある者が神様と交わっても良い、唯一の方法。罪が赦されるという恵みがイザヤに与えられます。

 イザヤ6章6節~7節
「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』」

 祭壇は、罪の身代わりのいけにえを焼くところ。その祭壇の燃えさかる炭火とは、罪の赦し、和解を表すもの。御使いがその炭火をイザヤの口に当てます。おそらくは、イザヤが自分の罪深さを「くちびるの汚れた者」と言ったことに合わせたのだと思います。これにより「あなたの罪も贖われた。」との宣言。

 この罪贖われたイザヤが主の声を聞き、応答します。
 イザヤ6章8節
「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』」

 罪赦され、神様と交わる者とされたイザヤが、私を遣わして下さいと言うことが出来た。これは非常に重要なことです。神様から遣わされるというのは、罪の赦しと、神様との交わりを土台としているのです。イザヤは、この経験を経て、神様に遣わされた預言者として生きることになりました。
 私たちは罪赦された者でしょうか。神様と交わる者とされているでしょうか。間違いなく罪赦された者、間違いなく神様と交わる者です。目の前に天使が現わされて、祭壇の炭火をつけられたということは経験していません。しかし、それよりもより確かな救い。イエス・キリストの十字架と復活によって、救われたのです。
 私たちは、神の民としてこの世界に遣わされていると信じていますが、なぜそのように信じているのかと言えば、キリストによって、罪赦され、神様と交わる者とされたからでした。


 私たちは皆でイザヤ書を読みたいと思います。かつて、神様から神の民に語られた言葉を、キリストによって神の民とされた私たちが読むのです。自分が、神様から遣わされて、今の生活の場で生きていることを覚えることが出来ますように。イザヤを通して語られた言葉によって、私たちがそれぞれの遣わされた場所で、ますます神の民として生きることが出来ますように。神の民として生きる、そのおおもとに、キリストの十字架と復活があることを覚えて、生きることが出来ますように。皆で聖書を読み、それに従う恵みを味わいたいと思います。

2015年5月10日日曜日

ヨハネ福音書18章12節~27節 「ペテロの敗北」

先回から、私たちはヨハネの福音書の第18章に入りました。そこで見たのは、裏切りの弟子ユダに導かれた兵士の一団とユダヤ教の役人により、イエス様が逮捕される場面。今日は、その直後、ユダヤ教指導者のもとで行われた裁判の様子を読み進めてゆきます。
特に注目したいのは、被告人でありながら終始凛とした態度でその場を仕切ってゆくイエス様の姿と、裁判が行われた家の庭までイエス様についてゆく勇気を示した弟子ペテロが思わぬ弱さを表わし、敗北を味わう姿です。先ず、イエス様が連れてゆかれたのは元大祭司アンナスの家でした。

18:12~14「そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕えて縛り、まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。カヤパは、ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」

イエス様が被告人として裁かれた裁判は、ユダヤ教指導者によるものが二回、総督ピラトによるローマ式裁判が一回の合計三回。ヨハネの福音書はこの内ユダヤ教指導者によるもの一回、ローマ式裁判の計二回を記していますが、今日の箇所はユダヤ教指導者、それも、この時既に引退していた元大祭司のアンナスが主導した尋問の様子を描いています。
この裁判が引退したアンナスによるものか、それとも現役の大祭司カヤパによるものか。ここで大祭司と呼ばれている人物がアンナスかカヤパか。二つの考え方がありますが、今日はアンナス主導の裁判と言う立場で、私たち読んでゆきたいと思います。
アンナスは既に引退していたとは言うものの、ユダヤの政治・宗教界において大きな影響力を持っていた影の大祭司、実力者でした。ヘロデ王と手を結び、五人の息子を、ただ一人と定められた大祭司の地位に、次々とつけるなど勢力をふるっていたのです。事実、その頃の大祭司カヤパもアンナスの娘婿でした。
この様に、現役の大祭司を脇にやり、大物のアンナスが直々に裁判を仕切ろうとしたと言うことは、イエス様がいかに民衆に支持されていたか、また、様々な奇跡や教えを通して神の御子、救い主であることを示してこられたイエス様を、彼らがいかに恐れていたかを物語っています。自分らの立場が危うくなるのを恐れた宗教指導者たちは、新米大祭司カヤパより、政治的手腕にたけたアンナスに託し、本気でイエス・キリスト抹殺しようとしていたのでしょう。
しかし、この裁判の異常さ、不法性はこれにとどまりません。これは、イエス死刑と言う結論ありきの裁判でした。以前、民衆がイエス様を熱狂的に支持する様子を見て、彼らがイエス様を王に祭り上げ、ローマ帝国打倒の運動を起こすかもしれないと、指導者たちが危機感を抱き、相談し合ったことがありました。この時「ひとりの人イエスが、民全体に代わって死ぬことが得策」との案を出したのが、現役大祭司のカヤパ。この提案に沿って、裁判は進められてゆくことになります。
さらに、無抵抗のイエス様を一隊の兵士、600人のローマ兵士の一団が束になって捕え、縛り上げたこと。深夜の裁判は違法との決まりがあったにもかかわらず、強行されたこと。何よりも、被告人を刑に定めるためには複数の証人が必要とされており、この決まりをユダヤ人は非常に大切にしていましたのに、この裁判では肝心要の証人を、彼らは立てることができなかったのです。

マタイ26:59,60「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。・・・」

この様に、集められたのは偽の証言をする者たちばかり。それでも、確たる証拠はつかめなかったという酷い有様です。この裁判は、何としてもイエス様を罪に陥れるための裁判、最初から結論ありきの異常で、不法な裁判、暗黒裁判でした。しかし、その様な弱い立場、危機的な状況に置かれていたにもかかわらず、イエス様は凛とした態度を貫いておられます。むしろその場を仕切り、支配しているのは権力者アンナスや役人ではなく、イエス様の方とも見えるのです。

18:19~21「そこで、大祭司はイエスに、弟子たちのこと、また、教えのことについて尋問した。イエスは彼に答えられた。「わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。彼らならわたしが話した事がらを知っています。」

先程も言いましたが、その当時被告人を刑に定めるには複数の証人が必要であり、証人を立てる責任は指導者側にありました。しかし、望む様な証人を探し出すことができなかったアンナスは、イエス様に話をさせ、ことば尻を捕えて罪に陥れようと図ったのです。
けれども、今日でもそうですが、被告人の自白だけで事を決めるのは法律違反、不法でした。イエス様が「隠れて話したことは何もありません。なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい」と主張されたのは、彼らの不備を突くためと考えられます。しかし、ここに「被告人の分際で何たる言い草か」と、腹を立てた小役人が登場します。権力者アンナスに媚びたこの人は、平手打ちでイエス様を脅そうとしました。

18:22~24「イエスがこう言われたとき、そばに立っていた役人のひとりが、「大祭司にそのような答え方をするのか。」と言って、平手でイエスを打った。イエスは彼に答えられた。「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」アンナスはイエスを、縛ったままで大祭司カヤパのところに送った。」

イエス様は、ご自分を平手打した者の誤りを指摘しました。この訴えは、イエス様に暴力をふるった役人に向けられただけでなく、それを見過ごしにしたアンナスにも向けられていたでしょう。
イエス様の毅然とした振る舞いにぐうの音も出ないアンナス。地上の権力者と被告人との対決は、イエス様に軍配が上がったと言えるでしょうか。最早自分の手に負えないと感じたアンナスは、カヤパの手にイエス様を委ねたのです。イエス様の勝利、アンナスの敗北でした。
さて、裁判が行われた家の庭で、裁判とほぼ同時に、もう一つの出来事が進行していたことに皆様は気づいておられることと思います。ペテロが、イエス様の弟子であることを否定する場面です。
ペテロは裁判の席で尋問されたのではありませんでした。しかし、ご自分の信じる真理を毅然と語られたイエス様とは対照的に、ペテロは信じるところの信仰を言い表せないまま、くずおれてゆきます。

18:15,16「シモン・ペテロともうひとりの弟子は、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中庭にはいった。しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れてはいった。」

ここに登場するもうひとりの弟子、大祭司の知り合いであったため、門番の女に話をつけて、ペテロを裁判が行われている家の庭の中に導いた弟子。これは、福音書を書いたヨハネではないかとも言われます。
ゲッセマネの園でイエス様が逮捕された際、雲の子を散らすように逃げて行った他の弟子に比べると、ここまでイエス様について来たペテロの勇気は賞賛に値します。そう言えば、ゲッセマネでイエス様を守るべく、ひとり大祭司のしもべに切りかかったのも、このペテロでした。実に、ペテロと言う人は勇猛果敢だったのです。しかし、門の中に入った途端、ペテロは不意を突かれました。門番のはしためが「あなたもあの人、あのイエスと言う被告人の弟子ではないでしょうね」と問われ、ひどく動揺し、弟子であることを否定してしまったのです。

 18:17,18「すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言った。ペテロは、「そんな者ではない。」と言った。寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。」
その日の夜は非常に寒かったらしく、人々は火を起こし、肩を寄せ合い、暖を取っていました。何気ない顔をしてその中に紛れ込んだペテロでしたが、人々の視線から逃れようと必死だったのではないかと思います。うかつに言葉を発しないように。決して目立たぬように。息を殺し、人と目を合わせぬよう、下を向いていた。そんな姿が目に浮かびます。しかし、かえってそれが不自然に映ったのでしょう。自分を偽って行動する時、かえって人の注目を浴びてしまうと言うのは、私たちにも理解できる状況です。ですから、またもペテロは同じことを問われ、うろたえました。

 18:25~27「一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない。」と言った。大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。」

 一度目に問うたのは門番のはしためひとり。二度目は複数の人々。ペテロの否定も強くなります。そして、最後三度目はゲッセマネで切りつけた人の親類に見つかり、「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは確かにイエスと一緒にいました」と、動かぬ証拠を突きつけられ、それでも自分を守ろうと嘘を重ねるペテロの姿が露わになったのです。
 その瞬間でした。「すぐに鶏が鳴いた」とヨハネの福音書は記しています。何故でしょうか。実は、ペテロがこの様な歩みをたどることを、イエス様は預言しておられたのです。

 13:36~38「シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」」

 「あなたに従うためには命をも捨てる」と豪語したペテロは、正に有言実行、勇気の人でした。しかし、その勇気は己の力に頼る勇気であって、神様に支えられてのものではなかったのです。それを理解していたイエス様は、ペテロの辿る道を知りながら、そのすべてをわたしは見守っている、あなたに対するわたしの愛は変わらないとの思いを込め、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と預言されました。
 ですから、鶏の鳴き声を聞いたペテロは、このイエス様のことばを思い起こし、弱く、ふがいない自分のことを知りながら、その様な自分を変わることなく支えてくださるイエス様の存在を身近に思うことができたのではないでしょうか。この時聞こえた鶏の声、それは弟子であることを否定し、イエス様から遠く離れてしまったペテロを見捨てず、なおもともにいて守ってくださるイエス様の愛を告げる声だったのです。
 こうして、今日の箇所を読み終えた私たちが最後に確認したいことが二つあります。一つは、アンナスの尋問は、イエス様には死刑に値するような罪は何一つないことを私たちに確認させてくれました。
つまり、イエス様は自らの罪によって十字架に死なれたのではないこと、言葉を代えて言えば、イエス様が十字架に死なれたのは、ただ私たちを罪から救い、私たちが神様との親しい関係、本来人が生きるべき幸いな命を回復するためだったことが明らかにされたのです。イエス様は、ただ私たちを愛するがゆえに十字架の道を選ばれたこと。この愛が、今も私たちに差し出されていることを確認したいのです。
 二つ目は、自分の弱さ、不甲斐なさ、無力を心から悲しむ時、私たちは差し出されているイエス・キリストの愛に手を伸ばすことができるということです。今日私たちが見た弟子ペテロ敗北の姿を、ルカの福音書はこの様に描いていました。

 ルカ22:61,62「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。」

 イエス様と目と目を合わせたペテロは激しく泣いたとあります。私たちにとって、自分の弱さや失敗を認め、受け入れるのは本当に辛いことです。人生で最も難しいことかもしれません。しかし、この時、ペテロは弱く、不甲斐ない自分を認め、心から悲しみました。正しいことをせず、間違ったことをしてしまった無力な自分を認め、涙を流しました。
けれども、その様に痛みを感じることを通して、ペテロは差し出されているイエス・キリストの愛に手を指し伸ばし、その愛を受け取り、頼ることができたのです。私たちも同じ道を通って、霊的に成長することができると聖書は約束しています。今日の聖句です。

 Ⅰペテロ5:6「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」

 へりくだるとは、神様の前で、どんなに辛くとも、自分の弱さ、不甲斐なさ、間違った行動や無力を認め、心からそれを悲しむことです。その様な経験を通して、私たちに差し出されている神様の愛にすがり、頼るなら、その様な私たちを神様は高くしてくださる。霊的に成長させてくださると言うのです。

 自分の弱さや間違いに開き直るのではない。自分の弱さや間違いを隠すのでもない。それを認め、悲しみ、神様の愛に信頼すると言う道を選びとるなら、私たちはみな成長できる。この約束を握りしめて、日々歩んでゆきたいと思います。

2015年5月3日日曜日

ヨハネの福音書18章1節~11節 「父がわたしにくださった杯を」

今日からヨハネの福音書18章に入ります。直前の13章から17章までは、最後の晩餐の様子が描かれていました。イエス様自らしもべとなり、弟子たちの足を洗ったこと、もうひとりの助け主聖霊が来るとの約束、弟子たちのための祈り。この世を去るにあたり、イエス様の愛が余すところなく弟子たちに注がれたのを、私たちは見てきました。
そして、今日の箇所。イエス様逮捕の場面となります。但し、それを覚悟の上で、イエス様がこの園に足を踏み入れたことを、私たち覚えておく必要があると思います。と言うのは、裏切りの魂胆を見抜かれ、既に晩餐の席から立ち去っていた弟子ユダが、ここに人々を導き、ご自分を逮捕させるであろうことを、イエス様は予測していたのです。
何故なら、このゲッセマネの園は、イエス様と弟子たちがよく祈りや休息、会合のために使っていた場所。そこは、イエス様を憎む人々にとって、民衆から隠れてイエス様を確実に逮捕することが可能な唯一の場所だったからです。
また、ヨハネの福音書は書いていませんが、他の福音書には、逮捕される直前イエス様が苦しみ悶えていたと記されています。血の汗を流すほどの祈りを天の父にささげていたともあります。その祈りは、十字架の死と言う苦しみの杯を過ぎ去らせてほしいと言う思いと、天の父のみこころがなるように、即ち人類の罪を背負って十字架に死ぬことができる様にとの願いが、イエス様の内側でぶつかり合っていたことを物語っています。

マルコ14:36「またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』」

恐らく、以前からイエス様はこの様な祈りを何度もささげて来られたと考えられます。自分の内側にある正直な思いを誤魔化すことなく、見過ごしにすることもなく、しっかりとそれを見つめながら、天の父のみこころに従えるようにと祈り続けて来られたのです。
そして、最後の最後までご自分の思いと向き合いながら、既に理解しているはずの父なる神様のみこころを心の深い所で受けとめることができるまで祈られたその姿を、私たちは目に焼き付けておく必要があると思います。
イエス様にとって天の父のみこころに従うことは決して簡単ではなかったこと。むしろ、心の中で葛藤し、苦しみ悩みつつみこころを悟り、従うという道のりを歩まれたこと。これを、私たち忘れてはいけないと思うのです。
ですから、今日の場面でヨハネが描いているのは、この様な祈りの後、父なる神様のみこころを確信し、それをしっかりと受けとめたイエス様のお姿です。

18:1、2「イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこにはいられた。ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。」

ユダの手引きにより、人々に逮捕されるのを覚悟の上で園にやってこられたイエス様。その姿からは、十字架への道を進むことに、最早迷いも躊躇いも感じられません。そこに案の定捕縛者たちがやってきます。

18:3、4「そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、『だれを捜すのか。』と彼らに言われた。」
 
ユダが引き連れてきたのは一隊の兵士と、ユダヤ教指導者が送った役人たちでした。「一体の兵士」とはローマの軍隊のことで、一隊は兵士600人の一団を指します。ともしびと松明を携えて夜襲をかけると言う卑怯な手段に加え、一人の男を逮捕するのに、武装した兵士600人とは、何と大げさなことかと思われます。
そこに、後ろ手に弟子たちを庇うようにして、捕縛者たちの前に出てきたのがイエス様です。武器ひとつもたず、すっくと立つイエス様と完全武装した兵士の大集団プラス役人たち。彼らの注意をご自分にむけるため「だれを捜すのか」と問われたイエス様。そんなイエス様に容易に手を出せず、恐れているのは兵士、役人たちの方と見えます。
すると、ここに驚くべき光景が展開するのです。

18:5、6「彼らは、『ナザレ人イエスを。』と答えた。イエスは彼らに『それはわたしです。』と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。イエスが彼らに、『それはわたしです。』と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。」

人々が「ナザレ人イエスを捜している」と言うや否や、イエス様の方は「わたしはここにいる。逃げも隠れもしない」とばかり、「それはわたしです」と答えます。すると、何と兵士の集団があとずさり。バタバタ地面に倒れたと言うのです。
実は「それはわたしです」は元のことばで、「エゴーエイミ」と言い、旧約聖書の時代から、神様がご自分の名前として人々に示されたもの。イエス様がたったひとこと「エゴーエイミ」と口にしただけで、武装兵士と役人の集団は圧倒されました。まさに、イエス様が神様としての権威と力とを発揮された場面です。

18:7~9「そこで、イエスがもう一度、『だれを捜すのか。』と問われると、彼らは『ナザレ人イエスを。』と言った。イエスは答えられた。『それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。』それは、『あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。』とイエスが言われたことばが実現するためであった。」

後になってこの出来事を振り返ったヨハネは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」と言う、イエス様が最後の晩餐で語られたことばを思い起こしたのでしょう。これは、天の父がイエス様に下さった者たち、つまりイエス・キリストを信じる者たちを必ず守るという約束のことばでした。
暗闇の中に突如現れた兵士の集団とユダヤ教の役人たち。弟子たちにとっては、非常に恐ろしい光景であったに違いありません。そんな弟子たちを庇うように立たれたイエス様は、臆することなく「わたしを捜しているのなら、この人たちをこのままで去らせなさい」と告げました。体を張って弟子たちを守り、彼らをその場から立ち去らせようとされたのです。
それにしても、イエス様は何故弟子たちを守られたのでしょうか。この状況のもと、弟子たちも逮捕され、イエス様と同じ苦しみに会わされるなら、彼らの信仰が失われてしまうのではないか。その様にイエス様は案じておられたと考えられます。
弟子たちの信仰がいかに弱いものか。それをよく知っておられるイエス様は、彼らの信仰が完全に押しつぶされてしまうような試練をお許しにならなかった。その様な危険から彼らを守るためこの園から避難、脱出させる事。これがイエス様の思いであったでしょう。

Ⅰコリント10:13「…神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

弟子たちにしてみれば、捕縛者たちを恐れて逃げ出したことは大失態。思い出したくもない、弱く、惨めな自分たちの姿です。しかし、その様な者が、実はイエス様によって堅く守られていたことに気がついた時、彼らは自分たちに注がれたイエス様の愛とご配慮に感謝し、この出来事を記したのでしょう。
私たちも、私たちが完全に信仰を失ってしまう様な試練を許さず、むしろ試練とともに逃れの道をも備えてくださるイエス様を心から信頼する者でありたいと思います。
こうして、弟子たちの危険は去ったかに見えました。しかし、ここに一人の弟子が剣をもって大祭司のしもべに切りかかったと言うのです。直情径行型の人、シモン・ペテロでした。

18:10,11「シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」

恐れからか。怒りからか。あるいはイエス様を守ろうと思ったのか。ペテロは思いのまま剣を取ると、大祭司のしもべマルコスに切り付け、右の耳を切り落としてしまいます。それを見たイエス様は「剣をさやに収めなさい」と戒めました。
ペテロの行動をきっかけに戦いが起こり、その中で弟子たちがいのちを失ったり、逮捕されたりするのを避けるため、彼らを守るための戒めと考えられます。それと同時に、イエス様にとって、もはやペテロの助けも、戦いも不要でした。「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」と言われた通り、十字架の死に至るまで、天の父に従うことを決意したイエス様に、最早迷いは無かったからです。
さて、今日の箇所を通し、私たちの心に残ったイエス様の姿とはどのようなものでしょうか。ひとつは、自ら進んで十字架への道を進んでゆかれるお姿です。イエス様は仕方なしに死なれたのではありませんでした。捕縛者の手から逃げることができなかったので苦しみを受けたのでもありませんでした。
もし、イエス様が十字架の死にまで従う決意をされなかったら、兵士の大軍団もイエス様を捕えることはできなかったでしょう。もし、イエス様が許されるのでなければ、捕縛者たちはその体に触れることもできなかったはずです。
ユダの計画を知り、逮捕されることを覚悟しながらゲッセマネの園に行かれたことも、「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」と言われたことばも、イエス様が私たちの罪の贖いのため、心から進んでご自分を与えてくださる愛を現してはいないでしょうか。この愛を心にとどめ、私たちの魂を励ますものとしたいと思います。
もう一つ私たちの心に残るのは、全力を尽くして弟子たちを守ろうとしたお姿です。「わたしがそれだ」とのただ一言で、捕縛者たちを圧倒したこと、ご自分の体を盾にして弟子たちを守られたことを思い出してください。イエス様はその大いなる力を、ご自分を守るためではなく、弟子たちの信仰を守るため用いられたのです。
最後に、イエス様に愛され、守られていることの意味を確認したいと思います。最初に見たように、天の父のみこころに従うことは、イエス様にとっても簡単なことではありませんでした。
十字架の苦しみを避けさせて欲しいと言う思いと、天の父のみこころに従いたいと言う思い。二つの思いがイエス様の心で戦い、葛藤があったのです。肉の体を持つ者として痛み、悲しみ、苦しみをイエス様が経験されたことは、私たちにとって慰めであり、励ましです。何故なら、みこころに従おうとする時、私たちもこの葛藤を覚えるからです。
正直な自分の思いを意識しつつ、その思いに死に、みこころに従うことを求め続ける時、私たちの心は痛みを覚え、苦しみます。しかし、その痛み、苦しみをイエス様が理解してくださるとしたらどうでしょう。心の重荷をイエス様もともに負ってくださるとしたらどうでしょう。私たちが何度みこころに従うことに失敗しても、イエス様が愛してくださり、みこころを心の深い所で受けとめられるまで、イエス様が全力で私たちを守り続けてくださるとしたら、どうでしょうか。
イエス様は苦しみ悩んでも、天の父に愛され、守られていることを覚えておられたので、最後の最後までみこころに従う歩みを求め続けることができました。私たちもみこころに従うことができない弱い自分、従うことを拒む頑固な自分を思う時、落胆します。
しかし、その様な自分がイエス様に愛され、守られていることを覚える時、イエス様が心の痛み、苦しみを理解し、重荷を負ってくださることを知る時、みこころに従う歩みを求め続けることができるのです。
私たちを全力で守ってくださるイエス・キリストの
愛に憩い、励まされつつ、みこころに従うことを求め続ける歩みを進めてゆきたいと思います。今日の聖句です。


ヨハネ1028わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」