2015年4月26日日曜日

使徒の働き18章1節~11節 「わたしがあなたとともに」

「イエス・キリストを信じる前と信じた後で、あなたの生き方はどう変わりましたか」。皆様はこの様な質問をされたことがあるでしょうか。その様に問われた時、どう答えたでしょうか。今後、もし誰かに問われたとしたら何と答えるでしょうか。
様々な答え方がありますし、あって良いでしょう。私の中にもいくつかの答えが思い浮かびますが、もしその中で一つを選べと言われるなら、「自分のための人生から神様とともに歩む人生、神様のための人生への変化」をあげたいと思います。
勿論、今でも自分の利益優先で物事を判断し行動してしまうことが多くあるのが私の現実です。しかし、少なくとも、神様の栄光、素晴らしさを表わして生きてゆきたいと言う願いがいつしか芽生え、この願いが強い時も弱い時もありますが、心の中にあり続けることは、以前は考えもしなかった人生の革命という気がします。
聖書は、私たちがこの地上で神様の栄光、素晴らしさを表わすために創造された者、救われた者であることを教えています。その為に、この地上に生かされている神様の民であることを、首尾一貫して語っているのです。
食べて飲んで寝て、働いて。その虚しい繰り返しが人生だと思い込んでいたのに、あなたの人生には、尊い意味があると教えてくれた神様。広い世界の中の小さなチリの様な命。こんなちっぽけな人生に何の価値があるのかと寂しく感じていたのに、あなたの存在には大きな価値があると、自らの命を十字架につけてくださったイエス・キリスト。
神様の栄光を表わすと言うと、少し堅苦しいと言いますか、所謂立派な生き方をしなければと言う様な緊張感を覚えます。しかし、別のことばを使えば、私たちを愛してやまない神様を喜ぶこと、神様を最高に大切なお方として生きることと言えるでしょうか。
 そして、私たちは何をするにも、神様を喜び、神様を最高に大切なお方とすべきなのですが、特に三つのことにおいてそれができるし、その様な私たちの姿を見て、この世の人々は神様の存在に目を向けると言われます。
 その三つとは、神様を礼拝すること、愛し合う交わりを築くこと、神様を知らない人々に伝道することでした。今日は、使徒パウロの姿を通して、特に三つ目の伝道について考えてみたいと思います。
 今日の場面、パウロはアテネからコリントに移動しています。アテネは芸術と学問の都、コリントは商業の都。全く対照的な町から町へ旅をしたパウロですが、その為すところは変わりません。神様の救いのメッセージを伝えることでした。

 18:1~4「その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。」
 この頃、ユダヤ教の教師は仕事をしつつ、人々に聖書を教えるのが普通であったと言われます。もとユダヤ教教師の仕事は天幕づくり、テントメーカー。羊の毛からテント等の生活用品を作ることは、パウロのお得意のわざであり、これで生活を支えつつ、安息日には伝道に励んでいました。
 そして、このコリントの町で、パウロは生涯の友と出会います。ローマ皇帝クラウデオが出した退去命令により、都ローマから逃げてきたユダヤ人アクラ、プリスキラの夫婦です。彼らの職業も天幕づくりでしたから、最初は同業者、仕事仲間として知り合い、仲良くなったのでしょう。やがてアクラとプリスキラもキリスト教信仰に導かれ、この後の伝道旅行には、助け手として同行することとなります。
 そうこうする内に、愛弟子のシラスとテモテがコリントに到着。彼らが携えてきたマケドニアの教会からの贈り物は、パウロの生活を大いに支え、伝道に専念する態勢が整えられます。

 18:5、6「そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く。」と言った。」

  パウロが、同胞ユダヤ人に対する伝道に専念できるようになったこと自体は良いことでした。しかし、イエスがキリスト、救い主であることを明確に語るメッセージは、彼らの反発を買ったのです。十字架の木につけられたイエス様が神の子、救い主などと言う教えは、伝統的ユダヤ人の到底受け入れることのできないものだったからです。
 反抗、暴言を繰り返す残念な同胞に、福音を受け入れない責任はあなたがたにあると宣言したパウロは、「今から私は異邦人の方に行く」と語り、背を向けざるを得ませんでした。
 そして、事実異邦人の中に、イエスがキリストであることを信じ、洗礼を受ける人が大勢いたのです。

 18:7、8「そして、そこを去って、神を敬うテテオ・ユストという人の家に行った。その家は会堂の隣であった。会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。」

 神を敬う人と言うのは、ユダヤ人ではなく異邦人ですが、聖書の神さまを信じていた人々を指します。パウロのコリント伝道は、異邦人のうちに多くの実を結び、神様に祝福されたのです。
 こうして、ユダヤ人の反抗と暴言はあったものの、アクラ・プリスキラ夫婦との交わり、シラスとテモテが携えてきた経済的な援助、多くのコリント人の洗礼と、パウロの伝道は神様に祝福され、守られてきたように見えます。
 しかし、これ程に順調とも見える状況の中、不思議なことに、パウロの心は恐れに沈んでいました。連日連夜人に襲われ、危害を加えられる夢に苦しめられていたらしいのです。

 18:9~11「ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」

 パウロの心が恐れ、弱り果てていたのはどうしてなのか。この後、パウロに反対するユダヤ人は彼を裁判所に引っ張って行きますので、その際痛めつけられることを恐れていたのか。それとも、これまで受けてきた様々な迫害の恐怖が強烈なストレスになっていたのか。あるいは、持病が悪化したのではと推測する人もいます。
 はっきりしたことは分かりませんが、コリントの町での神様の祝福、伝道の進展にもかかわらず、この時パウロが自分ではどうしようもない程の恐れに苦しみ、弱く、無力な状態にありました。
 初代キリスト教会最大の使徒、世界に飛躍した伝道者パウロも、その心は鉄でも石でもなかったということです。迫害を忍耐し、海を越え、陸をかけて、キリストの福音を世界に広めたパウロも、恐れ、悩み、苦しみ、無力を感じる、そんな私たちと同じ心の持ち主だったのです。
 しかし、その様なパウロを放ってはおけず、そばに来て、声をかけ、慰め、励ましたのが主なる神様です。「わたしがあなたとともにいる」とのご臨在のことば。「だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない」という守りの約束。「この町には,わたしの民がたくさんいるから」との確かな保証。
 父親がしゅんとして肩を落とす我が子の姿を見て、矢も盾もたまらず近づくと、震える体を抱きしめ、「お父さんがいっしょにいるから安心しなさい。お父さんがあなたを守るから」と語りかける。そんな、力強くて、あたたかい、天の父の愛を思わせる場面ではないでしょうか。
 聖書の神様は人格的と言われます。イエス様は、このお方を天の父と呼んで良いのだよと教えてくださり、イエス・キリストを信じる者はみな、この世界を造られた全能の神様を「アバ、父」と呼ぶことのできる御霊を心に与えられています。
 私たちは、この箇所を通して、私たちの心の恐れ、苦しみを知ってくださる神様、その姿を見ると放っておけず、近づいてくださる神様、全身全霊で慰め、励ましてくださる、優しく、頼もしい父の神様を見ることができます。この様な神様を知っている幸い、この様な神様に愛され、守られている恵みを覚えたいところです。
 こうして、主なる神様に励まされたパウロは、一年半この町に腰を据え、神のことばを教え続け、後の大コリント教会の土台を築くことができたのです。
 最後に、今日の箇所から確認したいことが二つあります。
 ひとつは、神様のことばに立ち、神様のことばに支えられているので、私たちは伝道することができるということです。
 ただ一人孤軍奮闘で伝道の働きを進めるなら、私たちの心はパウロの様に、疲れ果て、様々なことを恐れ、弱り果ててしまうでしょう。しかし、私たちはこの世のどこに置かれても、私たちを愛してやまない全能の神様がともにおられることを知り、覚えることができるなら、語るべきことを語ることができると教えられたいのです。
 また、私たちが語り続けることができるのは、神様がご自分の民をこの町に置いてくださっているからです。パウロがコリントの町に神様の民がいることを信じて、腰を据え、伝道したように、私たちは神様が四日市あるいは菰野、鈴鹿、亀山の町を愛し、この町にご自分の民をおいていることを信じているでしょうか。
私たちがこの町に住んでいるのは決して偶然ではありません。この町に置かれた神様の民に福音を伝えることを、神様が私たちに期待しておられるから、私たちの住まいがここにあるのです。この一年、私たちも神様のことばにささえられ、神様とともに伝道を進めてゆきたいと思います。
 二つ目は、神様が自分に与えてくださった人間関係、伝道のための賜物についてよく考え、実行することです。
 コリントの町で、神様は様々な人間関係をパウロに与えていました。最初に伝道したと思われるアクラとプリスキラ夫婦は同じ民族の仕事仲間。故郷を同じくする職場の同僚です。ユダヤ人の反対のため会堂を去った際、集会を開いたのは会堂のお隣に住んでいたテテオさん。地域の隣人、お隣さんでした。一家をあげてイエス・キリストを信じた会堂管理者クリスポは、コリントの町に多くの知人、友人がいたように見えます。
 神様が私たちに与えてくださっている人間関係はどのようなものでしょうか。職場の同僚、地域の隣人、友人や友人の友人。そう言った人々と信頼関係を築いてゆくことが、伝道の第一歩であることを覚えたいと思います。
 また、パウロは聖書のことばを説き明かすことで伝道を進めてゆきましたし、そこに彼の賜物がありましたが、私たちの場合はどうでしょうか。みことばから福音を説明し、語る。救いの証しや、クリスチャンになって変えられた生き方について証しするなど、語ることが得意な人。教会の集会や牧師の所に、人を連れてくるなど、連れてくる賜物のある人。家での食事に招いたり、相談にのったり、交わりによる伝道に関心のある人。語ることは苦手でも、黙々と愛の行いに励み、生き方で神様を伝える人。
 私たち各々、自分の賜物が何かを考え、それをもって伝道に取り組んでゆきたいと思います。
 今日の聖句です。

使徒18:9,10「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」


2015年4月19日日曜日

雅歌8章6節~8節 「一書説教 雅歌 ~愛する喜び~」

 断続的に取り組んできた一書説教、今日は二十二回目となります。聖書は全部で六十六巻ですので、これでやっと三分の一。まだまだ長い道のりですが、ここまで進んで来られたことを感謝しつつ、これ以降も皆で聖書を読むことに取り組むことが出来るようにと願っています。
 旧約聖書第二十二の巻は雅歌となります。一つ前の伝道者の書は、聖書の中の珍書、奇書として有名でしたが、この雅歌も同様で、聖書の中でも一際変わった書。ヘブル語では「最も優れた歌」(シール・ハッシーリーム)という書名、日本語では雅の歌。その内容は、男女の恋の歌、愛の歌となっていて、読む者をして、なぜこのような歌が聖書の中に入っているのかと戸惑うことになるのです。
伝道者の書が「全ては空」として人生の空しさを歌うのに対し、この雅歌では、人生の喜び、恋愛、結婚、性の喜びが歌われます。両方ともソロモンの名を冠しながら、全く異なる印象。改めて聖書の広さを実感するところです。

 最近聞いた小噺に次のようなものがありました。
「ある荒くれ者が、敬虔なクリスチャンをからかうために質問しました。『何かお勧めの本はないかい。過激な性的表現のある本が読みたいのだが。』すると敬虔なクリスチャンが『丁度良いのがあるよ』と答えて、聖書を差し出しました。」という話。
 面白い話と感じるでしょうか。荒くれ者は、敬虔なクリスチャンが過激な性的表現のある本を知るはずがないとして、からかうための質問をします。「過激な性的表現の本はないか」と。荒くれ者が想像している本は聖書からかけ離れたものでしょう。しかし、その願いの通りに本を勧めるとしたら、それは聖書であるという答え。
 これが小噺として成り立つのは、聖書の中に雅歌があるからと言えます。雅歌は過激な性的表現が含まれる書。仮の話ですが、私が教会の中で「あの人が私にキスをしてくれたら良いのに」(一章一節)とか、女性にむかって「あなたの太ももは魅力的です」(七章一節)とか、「あなたの胸は素晴らしい」(七章七節)と、言ったとしたら、あの牧師も遂におかしくなったと思われるでしょう。しかし、この言葉は聖書の中、雅歌の中の言葉。やはり、聖書広いのです。

 伝道者の書とは異なる意味で難解な書。今日はこの雅歌に取り組むことになります。次回の一書説教(五月十七日予定)までに雅歌を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 聖書中、一際異彩を放つ雅歌ですが、他の書と比べて何がそれほど違うのかと言えば、「神」の文字が出てこなく、内容も人間的な側面が強く表れていることです。神様からの語りかけ、働きかけの記述はなく、また人から神様への祈り、告白もない。男性から女性へ、女性から男性へ、愛の歌が繰り返される書。(「神」の文字が出てこないのは、旧約聖書で二つで、もう一つはエステル記です。エステル記はその内容から神様の摂理の御業が強くあらわれていました。)
 少し雰囲気を確かめてみますと、
 雅歌1章9節~17節
「わが愛する者よ。私はあなたをパロの戦車の雌馬になぞらえよう。
  あなたの頬には飾り輪がつき、首には宝石をちりばめた首飾りがつけてあって、美しい。
  私たちは銀をちりばめた金の飾り輪をあなたのために作ろう。
  王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。
  私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。
  私の愛する方は、私にとっては、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。
ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。
  私の愛する方。あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。私たちの長いいすは青々としています。
  私たちの家の梁は杉の木、そのたるきは糸杉です。」

 雅歌に登場する男性が、女性に語りかける時は「わが愛する者よ。」と語りかけ、女性が男性に語りかける時は「私の愛する方よ。」となります。今確認した中で、男性から女性、女性から男性への言葉が繰り返されています。
 男性から女性へ、「パロの戦車の雌馬のようだ。贈り物をしよう。」との語りかけに対して、女性から男性には「ナルドのかおり、没薬の袋、ヘンナ樹の花。」と、三つの芳しい香りで、男性への喜びを表現されます。するとまた男性から「あなたは美しい。あなたの目は鳩のようだ。」それに対して女性から男性には「私たちの住む家は素晴らしもの」との答え。このようなやりとりがずっと続くのが雅歌です。

 ところで、私たちと異なる文化の「詩」を理解するのは、難しさがあります。今の日本で女性への褒め言葉として「パロの戦車の雌馬」とは言わないでしょうし、男性への褒め言葉として「没薬の袋」とか「ヘンナ樹の花」とも言いません。
試しに昨晩、妻に「あなたは雌馬のようですね。』と言われたらどう思う?」と聞いたところ、「じゃじゃ馬って意味かと思う。」と言っていました。今の日本では、悪口になりかねない言葉。
 このように、詩を読むということにも雅歌の難しさがあります。文脈から、愛を伝えている、褒めているということは分かっても、何故このような表現なのか、私たちにはあまりピンとこないのです。

 ちなみに、調べてみますと「パロの戦車の雌馬」という表現。エジプトの戦車は通常、雄馬がひくものでした。パロの戦車と言えば、血気盛んな雄馬の世界。そこに雌馬が入りこむというのは、雄馬たちを非常に興奮させるもの。魅力的に見えるという意味。それ程、私にとってあなたは魅力的ですという意味になりますが、かなり強い性的表現と言えます。
 またナルドの香油は媚薬として珍重されたもので、女性から男性への「わたしのナルドがかおりを放ちました。」という言葉も、過激な性的願いと言えます。
 何にしろ、雅歌は男女の愛の歌ですが、相手を褒めたいというだけでなく、私たちが想像する以上に、性的な意味で愛を伝えあう歌となっているのです。

 雅歌の登場人物ですが、基本的には男性から女性への言葉と、女性から男性への言葉(女性から男性への言葉の方がかなり多くなります)ですが、読む際に気を付けたいことが二つあります。
 一つは、主役となる男女ではない、「エルサレムの女たち」がところどころで声を挙げることがあること。
 例えば、雅歌5章9節
「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。あなたがそのように私たちに切に願うとは。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。」

 一組の男性と女性しか登場していないと考えると、混乱するので、そうでない人も登場することを覚えておきたいと思います。

 もう一つ覚えておきたいのは、登場する男性は二人いる可能性があるということです。雅歌に記される発言は、発言者が誰なのか記されていないので、その言葉の中身から、様々な推測が必要となります。
 例えば、女性の発言により主な登場人物の男性が二人いると推測されるものがあります。
雅歌1章7節
「私の愛している人。どうか教えてください。どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。あなたの仲間の群れのかたわらで、私はなぜ、顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。」

 この言葉から、女性が愛している男性は、羊飼いであることが分かります。しかし、雅歌の中では繰り返し王の存在が語られますので、王と羊飼いは別人ではないかとの解釈が出て来ます。
この考え方に立つと、一人がソロモン王で、もう一人が、女性が愛している羊飼いの男性。そして、王は二人の仲を裂こうとする者。女性は王の誘惑にも耳を傾けず、愛する羊飼いの男性に忠実である、という話として雅歌を理解することになります。(この方が、より劇的と言えるでしょうか。)

 ただし、この考え方は決定的なものではありません。羊飼いというのはイスラエルでは一般的な仕事。つまり、男性の仕事を表現しているだけのことと考えることも出来ます。
先の雅歌一章七節は、仕事の少しの休みにも会いたい思いの詩的表現と捉える。そうすると、王と羊飼いは同一人物で、最初から最後まで、一組の男女の話として雅歌が理解出来ます。

 この一書説教までに、主に登場する男性は一人、もしくは二人と、自分の意見を決めたいと願い、雅歌を読んだのですが、申し訳ないことに私は結論付けることが出来ませんでした。二人の男性がいるとみるか、一人の男性だけとみるか、是非とも考えながら読んで頂ければと思います。「私はこちらだと思う」と自分なりの結論が出た方は教えて頂ければと思います。

 雅歌の概観ですが、これもまた、非常に難しいものです。
 一つの概観の方法は、時間の経過通りに雅歌が書かれていると考えるもの。四章の後半に結婚式のクライマックスが記されているので、前半が結婚前の婚約期間。中盤に結婚。後半は、結婚生活の問題発生や、最終的な和解が記されているという理解です。この理解に立てば、雅歌は愛し合う二人の関係を段階を追って描いていることになります。(しかし、この理解に立つ場合、結婚前であるはずの前半に、かなり過激な性的な願いが出ていることをどのように捉えるべきなのか、考える必要があります。)
 もう一つの概観の方法は、時間の経過通りには記されていなく、テーマのかたまりで五部構成になっていると考えるもの。「愛することへの期待」(1章1節~2章7節)、「愛する相手を失う恐れと見つける喜び」(2章8節~3章5節)「結婚式」(3章6節~5章1節)「(再度)愛する相手を失う恐れと見つける喜び」(5章2節~8章4節)「結語」(8章5節~14節)という概観になります。
 どちらにしても、全体を明確に掴むことが非常に難しい書。繰り返し読んで、自分としての全体のイメージを掴むことが出来ればと思います。

 以上、雅歌を読む備えとして、いくつかのことを確認しました。これから読みましょうと勧めているのに、難解であることを繰り返して申し訳ないのですが、とはいえ私たち皆で雅歌にあたることが出来るのは大きな喜びです。是非とも、読み通して頂きたいと思います。

 最後に、この雅歌をとして教えられるメッセージは何か、確認したいと思います。
キリスト教の歴史の中で、雅歌に示された男女の愛の関係を、キリストと教会の関係、神様と私たちの関係としてとらえることが長らくありました。イエス様が私たちをどれ程強く愛しておられるのか。雅歌に出てくる男性から女性への言葉は、キリストから私たちに語られる言葉として理解するというものです。
確かに、聖書の中には、神様と神の民が婚姻関係として表現される箇所や、結婚の奥義として、キリストと教会の関係が語られる箇所があります。そのため、雅歌も同じように、主イエスと私たちの関係をもとにしたものと考えたくなります。しかし、聖書のどこにも、雅歌に出てくる男女の関係が、私たちと神様との関係であることを示唆する箇所がありません。つまり勝手に、これは私たちとイエス様の関係だと決めつけて、読むべきではないと言えます。

 それでは、雅歌の中心的なメッセージは何なのか。雅歌をそのまま読むと、男女の関係は神様の祝福のうちにあるということが、中心テーマ、中心メッセージと受け取れます。(言うまでもなく、罪の中にある状態での、男女の関係のことではありません。)それも性的な男女の関係となれば、夫婦関係ですので、夫婦の愛について教えられていると読めます。
 罪の影響下にあって、私たちは様々な人間関係が損なわれますが、罪の影響が強く出るのは夫婦関係と言えます。神様の定めた祝福された夫婦関係を維持することは、いかに難しいことでしょうか。本当に良い夫婦関係を持ちたいならば、罪の問題を解決すること。キリストにより罪から解放されることが、必要です。雅歌は、いかに罪から解放されるか、いかに祝福された夫婦関係を持つのかについては沈黙していますが、祝福された夫婦関係がどのようなものか提示しているのです。
一般的に(少なくとも現代の日本では)、相手への興味、関心は結婚前が最も強くなり、結婚してからは減るものとして語られます。しかし、雅歌を読みますと、そのような考え方は聖書的ではないようです。

 雅歌の終わりに出てくる言葉が印象的です。
 雅歌8章6節~7節
「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」

 封印のように、解かれないものとして、あなたとともにいたい。あなたへの愛は、死のように強く、凄まじい炎であり、大水でも洪水でも消すことが出来ず、金銀財宝でも買うことの出来ないもの。
 これ程の強い感情をもって結婚相手を愛することが、祝福の道として示されることに、驚きと戸惑いを覚えますが、とはいえこれが雅歌でした。
結婚相手に、強い関心を持つこと。自分にとってどれ程魅力的であるか伝えること。夫婦に許された性的関係を喜ぶこと。そのような夫婦として、歩んでいく道があること。そのような夫婦となる選択をするようにと、雅歌を通して教えられるのです。

 既に結婚している者は、聖書の示す一つの祝福の道として、雅歌に示されたような愛し合う喜びを味わう結婚生活を選ぶことが出来ますように。これから結婚する者は、結婚への備えの一つとして、雅歌を読むことが出来ますように。結婚相手を、死別、離別した者は、結婚を通して頂いた恵みを感謝する時として、雅歌が用いられますように。よく考えた上で、結婚しない決意をしている者は、聖書の世界観を身に付ける機会、聖書の広さを味わう機会として、雅歌を読むことが出来ますように。

 私たち皆で、聖書を読む恵みを味わいたいと思います。

2015年4月12日日曜日

ヨハネ17章20節~26節 「みな一つとなるため」

聖書によれば、神様を離れ罪に落ちた人間が失ったものがふたつあります。一つは、神様との親しい交わり。もう一つは互いに愛し合う交わりです。
事実、人類最初の夫婦アダムとエバの間も喧嘩をしたことが記されています。夫アダムは禁断の木の実を食べたことを妻のせいに、妻エバは誘惑した蛇のせいに、各々責任転嫁し争いました。最初もっていた親密な交わりを失ったのです。ある意味で、聖書は、それ以降、夫婦親子隣人、民族と民族、国と国。人間の交わりがいかに酷いものになってしまったか。どれ程あるべき状態から落ちてしまったのか。その記録と言えます。
そして、状況は現代においても変わらないかもしれない。いや、より深刻になったとも感じます。人間を機械の歯車のように扱う企業。女性を性的な商品のように扱う男性。親が子を、子が親を、夫と妻が互いを利用し合い、争う家族。友人を望みながら、傷つくのを恐れ、親しくなるのを避ける人々。アンケートでは人生において大切なものは、家族や信頼できる友と答えるものの、多くの人が孤独に悩んでいるのではという気がします。
さて、受難週とイースター、二回の礼拝を間に挟みましたが、今日私たちはヨハネの福音書17章にある、イエス・キリストによる大祭司の祈りの学びに戻ります。
この祈りは、十字架前夜、最後の晩餐の席上、イエス・キリストが天の父に向けてささげたもの。今まで、ご自身のため、次に席を同じくする弟子たちのためと祈ってこられたイエス・キリストが、今日の箇所では、今世界中に広がる私たちクリスチャンのことを覚えて、祈りをささげておられます。
そして、この祈りの中心にあるのは、イエス・キリストを信じる私たちの中に、失ってしまった愛の交わりが回復するようにとの願いであることに注目したいと思うのです。

17:20,21「わたしは、ただこの人々(席を同じくする弟子たち)のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々(今世界中に広がる私たちクリスチャン)のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」

この祈りの中で私たちが一つになるようにと何度祈られたか、わかるでしょうか。三度です。もって、これがイエス様にとっていかに大切な願いであるかが分かります。
それでは、「一つとなるため」の「一つ」の意味は何でしょうか。それは、「統一」ではなく「一致」ということばにより近いものです。譬えて言うなら、デパートや銀行で店員さんが皆同じ制服を着ていること、これは統一でした。それに対して、三本の異なる色の糸がより合わされ、より豊かな色合いの一本の糸となることが一致と言えるでしょうか。
つまり、多様性が認められる中で、皆が心を合わせ一つに結ばれることです。教会をキリストの体にたとえたパウロは、「器官は多くありますが、からだはひとつ」と語り、「それは、からだの中に分裂がなく、みながいたわり合うためです」(Ⅰコリント12:20,25)と書いていますが、様々な器官がバラバラでなく、一つからだ一ついのちとして機能する状態、これを一致と言っても良いでしょう。
「あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるため」と、イエス様は言われました。天の父がイエス様におられ、イエス様が天の父にいる様に、私たちが一つとなる。これは、どういうことでしょうか。
人を愛する時、その人の存在はたとえ場所が離れていても私たちの心にいると言う経験を、皆様はされたことがあるのではないかと思います。親が遠く外国に住む我が子のことを心に思い浮かべ、心配したり、励ましたりする。戦場で戦う夫を思い、母国に残る妻が心の中で語りかける。確かに、私たちが愛する人は私たちの中に存在するのです。
天におられる父なる神様と地上にいるイエス様も、その様な関係にありました。ですから、天の父がイエス様におられ、イエス様が天の父にいる様に私たちが一つとなるとは、私たちが自由な愛によって一つに結ばれる。その様な関係をイエス様が心から願っておられるということになります。
天の父とイエス様とが異なるように、私たちもお互いに性格、賜物、働き、生まれ育った環境等様々な点で異なっています。愛を表現する方法、愛を受け取る態度も異なります。
しかし、罪の中にある私たちにとって、お互いの違いを受け入れつつ、一つになることは、非常に難しいことです。何故なら、罪とは神中心ではなく自分中心に考え、生きることだからです。
私たちは自分と同じ考えに人が立つこと、自分の理想どおりに人が行動することを一致と思い、そうでない人の存在にイライラしたり、さばいたり、排除したりする性質を宿してします。しかもそうした自分になかなか気がつかないと言う、厄介な存在なのです。
けれども、そうした罪の性質を取り除くため、天の父がイエス様に与え、イエス様が私たちに与えてくださったものがあると言われます。

17:22,23「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」

天の父がイエス様に与え、イエス様が私たちに与えてくださった栄光とは、罪の贖いの恵み、あるいは聖霊を指すと考えられます。自分と異なる人を妬み、さばき、排除する性質。自分と異なる人を受け入れることのできない不寛容。それら愛の交わりを妨げる罪の性質を取り除くため、イエス様が十字架で成し遂げてくださった罪の贖いの恵みとそれを心に届けてくださる聖霊を、イエス様を信じる者はみな受け取ることができる。この聖書の福音、良き知らせを、私たちも受け取る者でありたいと思います。
ところで、私たちが愛によって一つとなることをイエス様が願ったのは、この世の人々のことをも愛しているからでした。「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるため」「あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るため」とある様に、私たちの交わりを通して、イエス様の存在と父なる神様の愛をこの世の人々は知ることができるのです。
松尾牧師と言う方の証しを聞いたことがあります。この方は元僧侶でしたが、キリスト教を信じて牧師となり、寺を捨てた人物です。その改心のきっかけは夫人の改心であったそうです。夫人は駅前で配られた集会のチラシを見て、生まれて初めて教会の門をくぐったのですが、説教はよくわからずじまい。しかし、心をとらえて離さなかったのが教会の中にあった何とも形容しがたい和でした。老若男女、仕事も性格も異なる様々な人々がいるのに、どうしてこれほど仲良くしていられるのか。それが不思議でならなかったのです。
やがて、夫人は寺に帰りますが、寺の現実とかけ離れている、教会の和と一致とに心惹かれ、翌日も教会に行き、やがてキリストを信じるに至ります。こともあろうに僧侶の奥さんがクリスチャンになったと言うことで、みなが大騒ぎ。ご主人も檀家の人々も随分反対したそうです。しかし、やがて夫人の心の中に神様から与えられたとしか思えない平安と力とを見たご主人が、奥さんの信じる神様に関心を向けるようになり、とうとう二人してお寺を出て、牧師になったと言う証しです。
私たちは、この世の人々が教会の何に心惹かれるのか、気がついていないのかもしれなません。壮麗な建物、数多くのプログラム、伝統や格式。案外私たちはそうしたものに、人々は魅力を感じて教会に足を運ぶのではと考えていないでしょうか。
しかし、この世になく教会にあるもの、いや教会にあるべきもの、愛の交わりこそ、人々が神様の存在に心を向ける源。その様な教会をつくるため、わたしは十字架にいのちをささげた。この祈りの中に、私たちこの様なイエス様の御声を聞くことができたらと思うのです。
さらに、イエス様の願いはこれにとどまりませんでした。私たちと永遠にともにいることを、天の父に強く願われたのです。

17:24「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」

この直後、イエス様は十字架に死に、天に帰って行きますが、地上に残る私たちのことを忘れてはおられなかったのです。むしろ、「時が来たら必ずや彼らを天の御国に導いて、わたしとともに生活できるようにしてください」。念を押すように祈るイエス様の姿が目に浮かぶところです。
もちろん、今もイエス様は聖霊によって私たちともにいてくださいます。地上にいても、私たちはイエス様がともにおられるのを覚えることができます。しかし、その知り方は、残念ながら直接ではなく間接に、直にと言うよりみことばを介してのものです。ですから、信仰の弱い私たちは、ともにおられるはずのイエス様を見失ってしまう様な心細さを覚える時もあるでしょう。
ですから、ここでイエス様が天の父にお願いしているのは、私たちが直接イエス様を知り、さらに親しくなること、顔と顔とを見合わせてお話しすること、栄光のイエス様のもとにこの体をもって、いつでも、何度でも、安心して行ける関係が完全にまた永遠に続く状態なのです。
私たち夫婦は、結婚する前7年間交際しましたが、最初の一年ぐらいが恋愛絶頂期、最盛期だったと思います。昼間大学の食堂で一緒にご飯を食べる。クラブで出会う。授業が終わるとデートをする。デートが終わると家の近くまで電車を乗り継ぎ、なるべく長く一緒にいる為駅からバスを使わず、歩く。夜アパートに帰ると、財布を十円玉で一杯にして、近くの公衆電話から彼女の家に、家族の人が出ないようにと祈りながら、電話をする。
今振り返ると、よくあれ程一緒にいたいと言う気持ちが湧いてきたものだと、不思議に感じます。何をしたか、何を話したかは全く覚えていませんが、とにかく一緒にいることが楽しい、一緒にいたいと言う思いが湧き続けて途切れないという状態は、あれが人生で最初にして最後という気がします。
イエス様の私たちに対する思いも同じではないでしょうか。イエス様は、貧しくとも富んでいても、病をもっていても健康でも、何ができてもできなくても、性格が明るくても暗くても、この地上でも、天の御国でも、私たちとともにいることを強く強く願っているお方です。イエス様は、私たちが持っているものではなく、私たち自身を愛し、私たちの存在そのものを大切に思っておられるお方なのです。この祈りも、私たちの心を慰め、励ましてくれるものではないでしょうか。
そして、天の御国での生活が実現するその時まで、「天の父よ、わたしはあなたの愛が彼らの中にあるよう、地上にいる者たちにあなたのことを知らせ続けます」と語る,誓いの祈りで締めくくられます。

17:25,26「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」

最後に、今日のところから、私たち心に刻みたいことが二つあります。
ひとつは、イエス様は、私たちが父なる神様の愛を心に受け取り、それに憩うことを何よりも、切に願っているということです。
「あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛された」また「あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にある」と言われる通り、父なる神様はイエス様を愛されたのと全く同じ愛で、私たちを愛しておられます。罪を持ったままの汚れた私たちが、罪のないイエス様と全く等しく、天の父から愛されていると言うのです。
また、二千年前に為された祈りのうちに、イエス様が私たちのこと思い、心に覚え、刻祈りつつ、十字架の道を進んでくださった姿を確認することができました。
私たちは、教会で奉仕をしたり、献金したり、この世で働いたり、他人を助ける等、神様のために何かをすることで自分の信仰を証明したり、評価する傾向があります。
しかし、イエス様が願うのは、私たちが何かをする前に、まず神様の愛を受け取り、憩うこと、安らぐことです。神様の愛を喜び、感謝することなのです。その上で、神様が自分に期待していることは何かを考え、行動すれば良いのです。日々その様な歩みを進めてゆきたいと思います。
二つ目は、私たちが愛し合う交わりを築くことは、この世に対して非常に大きな影響力があるということです。ですから、この世の人々が神様のことを知るため、私たち教会が一つになるようにと、イエス様は繰り返し祈りました。
けれども、旧約聖書の神の民イスラエルも、新約聖書の教会も、様々な問題で分裂、分派、対立を起こし、この様な交わりを築くことに失敗してきました。その後のキリスト教会の歴史を見ても、何度も同じ失敗が繰り返されています。
この様な教会が何故地上から消えてなくならないのか。それは、私たちは不真実でもイエス様は真実だから、イエス様が全身全霊私たちのためにとりなし、祈り続けておられるからであることを、今日の祈りで確認したいのです。
イエス様は今も祈り、期待しておられます。神様に背いて以来、人間が失ってしまった愛の交わりを、たとえ不完全であっても、私たちがこの地上に築くことを応援し、期待しているのです。イエス・キリストの罪の贖いの恵みを受けた者にしか築くことのできない交わり、人々にとって最も必要な愛の交わりを、何としてでもこの世界に残し、広げることを願い、それを私たちに託しておられるのです。私たちが、このイエス様の期待を感じながら、教会生活を送れたらと思います。今日の聖句です。


エペソ4:32「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

2015年4月5日日曜日

イースター礼拝Ⅰコリント15章20節~27節 「キリストによってすべての人が生かされ」 

今日はイースターの礼拝。イエス・キリストの復活の意味を考え、永遠のいのちの望みについて確認する礼拝となります。
 聖書によれば、神様は世界の初め、人間を永遠に生きることができる者として創造されました。しかし、それは無条件にではありませんでした。神様を信頼し続ける時、人間は神様とともに永遠に生きると言う祝福に入ることができたのです。
 けれども、人類の先祖アダムはこのテストに失敗。アダムは神様に背き、それ以降、アダムの子孫である人間は死すべき者となったのです。そして、人間の死には、神様との交わりを失い、罪を持ったまま生きる霊的な死と、肉体の死と言う二つの側面がありました。
しかし、死すべき者となったものの、人間の心から永遠へのいのちへの思いが消え去ることはなかったのです。
形あるものは壊れ、咲いた花は散る。それらが決して不思議なことではなく、自然のことであるのと同じ様に、生まれた人間が死ぬのは自然なこと、当然のことではないかと考える人々がいます。
しかし、それは人間の頭がひねり出した一つの理屈ではないかと感じます。何故なら、親しい者の死に直面して、私たちの心に悲しみが湧き上がるのはなぜでしょう。愛する親や子どもの死をありうべからざることのように感じ、嘆くのは、どうしてなのでしょうか。
私が死後の世界を意識したのは、小学校1年生の時のことです。可愛がってくれた祖母が53歳で亡くなりました。声をかけても答えてくれない祖母の姿に驚き、悲しくなった私は、親戚の叔父に「おばあちゃんはどこへ行ったの?」と聞いたのです。
すると、叔父は「おばあちゃんにはおばあちゃんの住む所があって、そこに今行くことはできないけれど、お盆になると家に帰ってきてくれるよ」と慰めてくれました。叔父は普段、人間は死んだら土に帰り消えてなくなる」と言っている人でした。しかし、さすがにそれを言ったら子どもが傷つくと考えたのか。それとも、自分自身を納得させるためのことばであったのか。ともかく、死後の世界があることを説いて、私の心を静めてくれようとしたのだと思います。こうした深い感情は、頭で考えた理屈では割り切れないものと感じます。
また、古代エジプト人は死者が永遠に生きることを願ってミイラを造り、日用品をも埋葬しました。その涙は病を癒し、その血を口にすると不死のいのちを授かると言われるフェニックス、不死鳥伝説は世界中に残っています。
強大な権力を手に入れた中国の始皇帝は死を恐れ、不老不死を手に入れようと部下達に無理難題を押し付けますが、無謀な命令を受けた彼らが作りだしたのは水銀などを原料とした丸薬であり、それを飲んだ始皇帝は猛毒によって死亡した、とも言われます。
古今東西、多くの人が氏を自然なことと割り切れず、永遠に生きることを強く願ってきたと言えます。
さらに、現代の仏教研究家の一人は、こう語っています。「死後の問題は信念の問題であって、事実や科学の問題ではありません。私は死後はないとみるよりも、有ると信じたいのです。死後の世界がないと考えたのでは、現実の自分の行動を納得のゆくように説明することはできません。私たちは無意識のうちに、死後の世界の存在を認めつつ、現実の世界で決断し、行動しているのです。」
    この様に時代を経て、科学が進歩しても、人々の心から死後の世界を望む気持ちが消えないのは何故なのでしょうか。それは、神様が人の心に永遠への思いを植えつけたからと、聖書は語っています。

    伝道者の書314「…神はまた人の心に永遠への思いを与えられた。」

    時代が変わっても、国が異なっても、人々の心に残っている永遠への思い、死後の世界への関心は、神様の恵みだったのです。
しかし、親しい者の死に直面して誰もが覚える悲しみの感情、世界中に残る不死鳥や不老不死の伝説に見られる死後のいのちへの願い、死後の世界がなければこの世を正しく生きられないとする信念。この様な人間の姿は、聖書の神を抜きにして死後の問題を考える時、私たちに本当の解決はないことを示しているようにも見えます。
    先程も言いました通り、人間は神様に背いてから、永遠のいのちを失いました。しかし、その様な人間を神様はあわれみ、もう一度神様とともに永遠に生きることのできるいのち、人間本来のいのちへと回復するため、イエス・キリストを送られたと、聖書は教えているのです。
    そして、私たちを永遠のいのちへと活かすため、イエス・キリストは十字架で罪の贖いの死を遂げ、復活された。これがイースターの意味であり、私たちがキリストの復活を祝う理由なのです。
ですから、キリストの十字架と復活を、弟子たちはこの世界で起こった現実の出来事、歴史の事実として、いのちをかけて伝えていました。そのいのちがけの思いは、もし、キリストの復活が現実に起こらなかったとしたら、復活が単なる希望にすぎないとしたら、キリスト教信仰のゆえにこれ程苦しめられている自分たちは、この世で最もあわれな存在ではないかと語るパウロのことばに、よく表れています。
 
15:19「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」

 しかし、これは実際にキリストが復活したことを知り、目撃した人の逆説的表現でした。だからこそ、復活したキリストに出会い大きく人生を変えられたパウロは、その事実と意味を次の様に告げています。

15:20「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

「眠った者」とは聖書独特の表現。イエス・キリストを信じた人々の死を、神様の御手の中に守られて眠り、やがて復活という目覚めの時を待つ姿として、美しく描いています。その様な死者の初穂、つまり先駆けとしてキリストが復活したことは、やがて将来キリストを信じるが皆復活する確かな証拠だと言うのです。
3月の上旬。私は教会の姉妹の方々と、なばなの里に行き、河津桜を見てきました。河津桜は一番咲の桜です。それが花をつけると、私たちは日本全国に桜前線が近づいているのを知ることができるからです。
言わば、河津桜は日本中の桜の初穂。それと同じく、二千年前に起こったイエス・キリストの復活は、将来の私たちの復活の初穂でした。
そして、イエス・キリストの存在がいかに大切なものか。それは、神様に信頼し続けることに失敗した人類の先祖アダムが死をもたらしたのとは逆に、十字架の死に至るまで神様に信頼し続けたキリストが私たちにいのちをもたらしたから、と聖書は教えています。

15:21~23「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」

私たちが失った永遠のいのちは、私たち自身の努力によっては回復できない。ただ、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによる。アダムの子孫であり、死すべき者であった私たちも、キリストを信じて永遠のいのちに生かされる。これが、聖書の良い知らせ、福音です。
しかし、よく見ると、復活には定められた順番がありと示されていました。まず二千年前のキリストの復活。これが初穂。その後、将来の再臨の時に、キリストを信じる者たちの復活が続くとされます。
では、何故イエス・キリストを信じた者はすぐに復活せず、将来を待たなければならないでしょうか。それは、親が生れ来るわが子のため最良の環境を用意するようつとめるでしょう。同様に、神様も私たちが生活するにふさわしい世界、最良の世界を整えてくださっているのであり、その完成がキリストの再臨の時でした。つまり、私たちがすぐに復活しないのは、神様の愛であり、配慮のゆえだったのです。
私たちが死んで後、再び生れ来る世界が、もしこの悲惨なままの世界であるとしたら、何の益があるでしょうか。何を好んで、もう一度この罪の世で生活したいと思う人がいるでしょうか。誰もが正義と平和と愛に満ちる世界で生活することを望むことでしょう。
その様な世界は、イエス・キリストの再臨によってもたらされるのです。

15:24~27a「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。 「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。」

「滅ぼす」と言うことばは、「無効にする、無用なものとする」との意味です。イエス・キリストが再びこの世界に来られた時、無用なものとする支配、権威、権力の中には、キリストに敵対する権力ばかりか、神様によって立てられたこの世のすべての権力も、そこに含まれるとされます。
人々を苦しめる為政者、貧しい者から搾取する特権階級がいなくなる世界。犯罪も戦争も起こらないため、この世では必要とされた警察や軍隊が無用の長物として消え去る世界。主人と召使、王と平民、身分階級の区別も終わりを告げる世界。ことばを代えれば、すべての人が対等、平等で、自分よりも隣人を尊び、喜び、愛する世界の到来です。
最初に読んだ黙示録のことばを用いれば、神様がともにおられ、私たちの眼の涙をすっかり拭い去り、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない世界。この世の悪しきものがすべて過ぎ去った世界と言えるでしょうか。この様な最良、最高の世界を準備し終えたタイミングで、神様は私たちを復活させてくださる。これもまた、大いなる
恵みではないかと思います。
最後に確認したいのは、永遠のいのちと言う視点で、人生を考えることの大切さです。その様な視点に立つ時、先ず変わってくるのは、死の意味です。
大きな鎌を持った死神、骸骨、黒いカラス、青ざめた馬。昔から人々は、死を不気味な存在、恐ろしいものと考えてきました。しかし、神様が備えてくださる世界を目指す者にとって、死はもはや恐れの対象ではありません。
永遠のいのちと言う視点に立つなら、一つの通過点です。それも、今よりも遥かに良い世界、今よりもお互いが愛し合い、今よりも神様と親しく生活できる世界であることを思うと、喜ぶべき通過点とも言えるのではないでしょうか。
さらに、永遠のいのちと言う視点で人生を考える時、私たちはこの世のものに捕われ、この世のものに縛られる苦しみから解放される気がします。
この世がすべて、この世でしか生きられないと考えるなら、私たちは、この世での仕事の成功に、この世での財産の獲得に、この世での地位や名誉に、この世での快楽を貪ることに心を向け、いつしかそれらのものに縛られてがんじがらめ。そうした生き方が実に重荷、ストレスとなります。
しかし、私たちの心を縛らず、重荷ともならない、真の成功、真の財産、真の名誉、真の快楽。それらをすべて備えた完全な世界が用意されていると信じるなら、私たちは必要以上の荷物を背負わないことを第一の心得とし、神様と人を愛することに心集中して生きることができるのではないでしょうか。今日の聖句です。

Ⅰコリント15:58「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」