2016年3月27日日曜日

イースター礼拝 ヨハネの福音書11章25節、26節「よみがえりの主、いのちの主」


皆様は人間と他の動物の違いについてどのようなことを思いつくでしょうか。一般的には、ことばを使ってコミュニケーションすること、ルールや法律を作ること、遊ぶこと等が、他の動物にはない人間の特徴とされます。しかし、それに加え、死を恐れる、死後自分がどうなるのか想像する、死後の世界について論じる等、死について考えることも私たち人間の特徴とも言われます。

 私の祖母は私が小学校1年生の時、53歳で亡くなりました。おばあちゃん子であった私は祖母の枕元に座っていましたが、その姿が寂しそうに見えたのでしょうか。一人の叔父が「俊彦、おばあちゃんは仏様のいる極楽と言う良い所に行ったんだから、安心して良いんだよ。お盆になったらまた家に帰って来るよ」と慰めてくれました。

 その叔父は普段から「この世の中神も仏もいるものか」と言うのが口癖でした。それで周りにいた親戚の人が少し笑ったのと、私も子供心に「普段言っていることと違う」と感じたのを覚えています。

後から振り返ると、叔父にはおばあちゃん子の私を慰めたいと言う気持ちとともに、愛する母親の死に直面して極楽の存在にすがり、自分自身を納得させたいと言う思いがあったのではないかと想像します。

形あるものは壊れる。咲いた花は散る。そうした自然現象と同じように、人間が死に無になるのも自然なこと。普段はそう考えていたとしても、叔父の様に親しい者の死に直面すると悲しみが湧き死後の世界を思う。それが人間と言う存在ではないでしょうか。

古代エジプト人は死者が来世で生きることを願ってミイラを造り、日用品をも埋葬しました。その血を口にすると不死の命を授かると言うフェニックス伝説の類は至る所に残っています。日本でも「鶴は千年、亀は万年」と言い、不老不死の願いを表わしてきました。何故、人間は死後のいのちについて願い、考えてきたのでしょうか。

 

伝道者の書314「…神はまた人の心に永遠への思いを与えられた。」

 

この世界を創造した神様が、永遠への思いを人の心に与えた、植えつけた。皆様はこのことばをどう考えるでしょうか。

昔から様々な人々が死後の世界、死後のいのちはあるかないかを論じてきました。死後の世界はあると論じる者もいれば、それを否定する人もいる。未だ決着を見てはいません。しかし、時代を越え国を越え、人々が死後のいのちについて論じてきたと言う事実そのものが、神様が私たちの心に永遠への思いを与えられた証拠と考えられます。

親しい者の死に際して誰もが意識する死後の世界。不死鳥や不老不死の伝説に見られる死後のいのちへの願い。死後の世界がなければこの世を正しく生きることはできないとする信念。それでは、この様に人の心に永遠への思いを与えた神様は、死後の世界についてどの様に教えているのでしょうか。

ヨハネ1125,26「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

 

このことばは、愛する弟子ラザロが亡くなった時、ラザロの姉マルタに対してイエス様が語ったものです。弟の死を悲しむ姉が「イエス様、あなたがもっと早く来て癒してくださったら、弟は死なずにすんだでしょうに」と嘆く。すると、イエス様はそのマルタにこのことばを語られたのです。

「わたしは、よみがえりです。いのちです」とは、イエス様がこの後十字架に死に三日目に復活すること、それを通して人々にいのち、永遠のいのちを与える者となることを意味しています。そして、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」とは、イエス様を信じる者は肉体において死んだとしても、永遠のいのちを生きること、ことばを代えて言えば、死後復活し、天国で生活する者となるとの約束でした。

一般的には天国、聖書では天の御国と表現されていることばは、それがこの地上ではなく天にある国と言う風に誤解されているかもしれません。しかし、当時ユダヤ人は直接神と言うことばを使うのを恐れたため、神の国と言う代わりに天の御国と言い習わしていました。事実、聖書では神の国と呼ばれることも多くあります。

そして、神の国とは神様の支配を意味します。つまり、キリストを信じる者が死後行くことになる天国、神の国は神様の愛を受け入れ、神様のみこころに心から従う人々の住む国であり、その様な国がこの地上に到来すると、聖書は教えているのです。

しかし、天国は非常に豊かな世界で、様々な側面を持っていますので、聖書も様々な表現を用いています。今日はそのうちのいくつかをあげてみたいと思います。

先ずは、祝宴、パーティーです。ある集会で、私が「天国の祝宴でどんなご馳走が食べられるか。とても楽しみです」と言いましたら、ひとりの方が「先生、天国で私たちは肉体を持っていると言うことですか。霊ではないんですか。この地上にあるような食べ物が天国にもあると言うことですか」と尋ねられたのです。

そこで、私は言いました。「聖書は、キリストを信じる者が霊として復活するのではなく、霊的な体で復活すると教えています。霊的な体と言うのは病を患うことも、死ぬこともない体、どんなものも美味しく食べられる健康そのものの体です。イエス様も復活した時、弟子たちと焼いた魚を一緒に食べたではありませんか」と。

食いしん坊の私にとって天国のご馳走はもちろん楽しみです。しかし、祝宴はさらに天国での私たちの交わりがどんなに豊かなものかを伝えています。先ほど神の国とは、神様のみ心に従う人々の国と言いました。神様のみ心の中心は人を愛すること、人を喜ぶことです。ですから、天国の祝宴においては、世界中から集められた兄弟姉妹がお互いに愛し愛され、喜び喜ばれ、仕え仕えられる交わりが実現するのです。

次は、新天新地です。聖書は天国を地震など自然災害のない世界、荒れ果てたままの場所のない、豊かな自然が回復した世界として描いています。旧約聖書では、「荒野に水が湧き、花が咲き誇る」と言う様により具体的に語られていました。

さらに、天国は「天の故郷」とも呼ばれています。故郷は私たちにとって懐かしい場所です。慣れ親しんだものや人々のいる自分の居場所と感じられるところです。天国が故郷とは、私たちが地上で親しんだ人々と再会し、私たちが地上で慣れ親しんだ風景を心行くまで楽しむことができる世界を思わせます。

そして、最後に取り上げたいのは「神の都」です。都は人間が作りだした文化、文明の世界を指します。聖書に登場する都で有名なものの一つにバベルがあります。バベルの人々は大きな都を建設し、都の象徴として天にも届かんとする高い塔を建てました。

しかし、その塔には人々が自らを誇り、神様を否定すると言うメッセージが込められていました。「自分達はこの様な塔を作るほどの力を持っている。だから、神など要らない」。その様な思いが込められていたのです。

神様がこの町をさばき、人々を全地に散らされたこと、いわゆるバベルの塔事件を皆さまもご存知かと思います。しかし、神様が裁いたのは文明そのものではありません。人間が自分を誇り神様を否定する、その様な文明を裁かれたのです。

しかし、天国に存在するのは、神様の栄光を表わすようなすばらしい文明、多種多様な文化です。イエス様を信じる者はそこで生活し、その様な文化文明を作り出す働き人となる。神の都には、その様な天国の側面が込められていると考えられます。

神の国、祝宴、新天新地、天の故郷、神の都。イエス様が「わたしを信じる者は、死んでもいきるのです」と言われた世界、キリストを信じる者が生活する世界のイメージを思い描くことができたでしょうか。

一方、イエス様は「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」とも宣言されました。「決して死ぬことがない」の「死」とは肉体の死ではありません。聖書では永遠の死と呼ばれるもので、人々が罪を悔い改めて神様に立ち返る能力と機会を失ってしまった状態を指します。言い代えるなら、神様の愛を受けとる能力と機会を失った人々の住む世界、地獄とも呼ばれる世界です。

神様の愛を受けとることができない時、私たちの心がどんな酷い状態になるか。世界がどれ程悲惨な状態となるのか。それを私たちはこの地上でも経験しています。

どれ程物資的に豊かになっても、それを恵みと感じられないため心満たされず、物質欲に縛られる人々。愛し合う交わりよりも、争いと不和が絶えない世界。心に怒りと憎しみを抱えたまま、それを手放すことができない人々。繰り返し襲う天災に苦しめられる世界。自分の居場所を持たず、孤独の痛みに悩む人々。高度な文明はあっても、それを悪用するばかりで戦いと混乱の絶えない世界。

イエス様を信じない者が味わうことになる死、永遠の死とは、この様な悲惨な状態が今よりもさらに深刻になり、それが永遠に続く世界と考えられます。

果たして、イエス様が言われることは不公平でしょうか。そうではないと思います。イエス様を信じるとは、自分が罪人であることを認め、イエス様の十字架と復活に表わされた神様の愛を受けとりたいと願うことです。イエス様を信じないとは、自分が罪人であることを認めず、神様の愛など自分に必要ない、自分は自分の力で人生をやって行けると考えることです。

神様の愛を心から必要とする人は神様の愛に満ちた世界に行き、神様の愛は不必要と考える人は神様の愛のない世界へ行く。結局、私たちは自分の願う世界に進んで行くということです。自分自身がイエス様に対して選択した結果を、この地上でも死後においても受け取ると言うことなのです。

 

ヨハネ11:25,26「「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

 

「このことを信じますか」とのイエス様の問いかけは、私たち一人一人に向けられています。いや、これはむしろ永遠の死へと向かう選択をせず、永遠のいのちへと続く選択をして欲しいと願うイエス様の私たちに対する招きのことばとも聞こえてきます。

イエス様の復活と言う歴史の事実を祝うイースターの意味は、私たちがこの愛の招きに応え、イエス・キリストを信じる選択をすることではないかと思うのです。

最後に、死後の復活を確信すること、天国を思うことは、私たちのこ地上での生き方にどの様な影響があるのか考え、確認しておきたいと思います。

第一に、死後の復活と天国を確信することは、私たちが地上で味わう心と体の痛みを和らげてくれます。地上にある限り、私たちは罪と罪の結果から逃れることはできません。自分の罪と人から受ける罪によって心が痛みます。病によって体も痛みます。しかし、私たちに用意されている復活と天国に目を留めるなら、この地上でのあらゆる痛みは一時的なもの。痛みが和らぎ、忍耐しやすくなるのではないかと思います。

第二に、死後の復活と天国を思うことは、人生の優先順位を明確にします。この地上でしか意味のないものを追い求めることをやめ、天国にもってゆける本当に価値のあること、神様との親しい関係、家族や友人との深い交わり、隣人に対する愛のわざに私のたちの心と時間を向けることができるのです。

私たちは経済的豊かさを求める余り、心と行動が金銭に支配されてしまうことがあります。自分の願いや考えに固執するあまり、それを受け入れない相手に対する怒りに心が捕われてしまうこともあります。スケジュールを次から次へと詰め込んで、私たちにとって最も価値のある神様との交わりや、大切な人との和解に取り組むのは後回しということもあるのではないでしょうか。

その様な弱さを持つ私たちにとって、天国を思い、天国を慕い求めることは、人生の優先順位を整理し、最も価値なことに取り組む生き方へと導く力があることを心に刻みたいと思うのです。今日の聖句です。

 

ピリピ313,14「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」

2016年3月13日日曜日

マタイの福音書5章13節~16節「山上の説教(9)~地の塩、世界の光~」


私たちはイエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教、いわゆる山上の説教を読み進めています。山上の説教はイエス様の説教の中で最も有名なもの。「右の頬を打つ者には左の頬も向けよ」「豚に真珠」など、聖書を手にしたことのない人にも親しまれている名言の宝庫でした。

山上の説教を一つの建物に譬えるとすれば、その入口にあたるのが幸福の使信です。「心の貧しい人は幸いです」に始まり「義のために迫害されている者は幸いです」で終わっていますので、八福の教えとも呼ばれています。

ここには、イエス様を信じる人の姿が八つの面から描かれていますが、私たちはひとつひとつ確かめてきました。即ち、神様の前に自分には何一つ良いものがなく、イエス様による罪の赦しに信頼することしかできないと認めている心の貧しい人。自分の罪を心から悲しむ、悲しみの人。また、自分の罪がいかに深いかを覚え、へりくだった態度で生きる柔和な人。神様の喜ばれる義しい生き方を追い求める義に飢え渇く人。神様のあわれみを受けた者として、他の人にもあわれみをもって接するあわれみ深い人。罪に汚れた心をきよくしてもらった心のきよい人。神様との平和を与えられているがゆえに、自らも他の人との平和な関係につとめる、平和をつくる人。最後は義のために迫害されたら、それをもって天の御国を与えられていると確認し、喜ぶ人でした。

イエス様を信じる私たちは、今既にこの様に生きることのできる恵みを頂いています。しかし、同時に私たちはこの八つの姿を目標とし、生涯かけて求め続ける者であることも確認することができたかと思います。

さて、今日の箇所は新しい段落となります。ここで、イエス様はご自分を信じる者、私たちのことを「地の塩、世界の光」と呼んでいます。つまり、私たちクリスチャンとこの世界の関係、私たちががこの地上、この世界に生きる意味が教えられているところです。

皆様は、イエス様を信じる者が何のためにこの世界に生きているのか考えたことがあるでしょうか。神様がどのような思いで私たちをこの地上に生かしておられるのかを心にとめながら日々歩んでいるでしょうか。

私たちはイエス様を信じて罪を赦され、神の子とされ、救いの平安を頂いています。死後の復活と天国での生活を確信しています。信仰は私たちの人生に大きな変化もたらしました。しかし、ここでイエス様は、イエス様を信じることが個人的な救い、心の平安にとどまるものではないことを教えているのです。

昔も今も、塩と光は人間の生活にとって欠かすことのできないもの。勿論、他にも欠かすことのできないものは多くありますが、イエス様の時代の人々にとって塩と光は生活に必要不可欠なものとしてとても身近なものでした。

ですから、「あなたがたは地の塩、世界の光」と言われた時、イエス様はご自分を信じる者たちの存在が世界にとって必要不可欠で大切なものであると宣言しているのです。

この世界には様々な人間の組織、団体があります。教育に携わる学校、病を癒すための病院、人々の生活に必要なものを作ったり、交通、運搬の手段を提供する会社、治安を守る警察や裁判所、国全体を治める政府等々、それぞれが大切な働きを担っています。けれども、それらの中でイエス様が最も大切と考え、特別な思いを寄せておられるのは神様が集めた人々の群れ、神の民、イエス・キリストを信じる者の集まり、私たち教会なのです。皆様はこの様な視点で、自分の信仰生活の意味を考えたことがあるでしょうか。

それでは、イエス様は私たちにどの様な期待を寄せておられるのか。具体的に見てゆきたいと思います。

 

5:13「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」

 

塩が肉や魚等食べ物の腐敗を防ぐ働きをもつことはよく知られています。生の魚や肉に塩をまぶしたり、塩漬けにすることで腐敗を防ぎ、保存することを昔から人々は行ってきました。イエス様は私たちの存在がこの世に蔓延る汚れや悪習を抑制することを期待し、「あなたがたは地の塩」と言われたのです。

私の大学時代の先輩は会社の上司の影響でクリスチャンになりました。働き始めて三年が経った頃、先輩は上司のある行動に気がついたのだそうです。それは、会社帰りに仲間同士立ち寄る店で所謂男同士の下品な会話が始まると、その人は顔を下に向けて黙っているか、その場を離れて行くと言う行動です。

ある時その理由を尋ねると、「いやあ、申し訳ないんだけれど自分はそういう話が苦手で、そんな私がその場にいると他の人の邪魔にならないかと思って遠慮しているんです」と答えたそうです。実は先輩自身もその様な場に居づらい気持ちを抱いていたのと、上司の立ち居振る舞いにも共感したので、ある時、自分達夫婦の問題で相談したのだそうです。

すると、「自分は男として外で働いているのだから、奥さんが家事や育児をするのは当たり前という態度はよくない。自分のできない部分を良くやってくれていることを思い、感謝を具体的に表すことが大切」とか「奥さんに仕えることを求める前に、自分が仕えやすい夫になるにはどうしたらよいかを考えると良い」等、それまで聞いてきたのとは一味もふた味も違うアドバイスをされ、それを実行して随分夫婦の関係も良くなったのだそうです。

それで、「課長はそういう考え方をどうやって身につけたのですか」と尋ねると、その時上司が「私の考え方と行動は聖書に全部あるんだよ」と語り、クリスチャンであることを明かしてくれました。成る程と今までの上司の言動に納得した先輩はこれをきっかけに聖書を読み始め、イエス・キリストを信じる者となったということです。

さらに、塩は食べ物本来の味を引き出すと言う特徴があります。ある集会で南米の小さな国に宣教師として派遣されていた方が話してくれたのですが、その宣教師はある時塩を全部使い切ってしまい、日本から送られてくる塩を心待ちにしていたことがありました。その時、塩抜きの食事がいかに味気ないものか、嫌という程体験したそうです。

そして、待ちわびていた塩が届き、ご飯に塩を振りかけて食べた時の美味しさが何とも言えず、忘れられないと証ししてくれました。

私たちも同じ働きをすることができます。自分にあるものを提供することで、気落ちしている人を励ますことで、一人寂しさを感じている人と交わることで、悩む人の話を聞いてその重荷をともに負うことで、あるいはその人のために祈ることで、相手の人が本来持っている生きる力、立ち上がる力を引き出すことができるように思います。

この世の汚れ、悪習を抑制すること、周りの人々の中に眠っている活力を引き出すこと。地の塩として私たちの働きは非常に大きいことを覚えさせられます。

そして、イエス様は「あなたがたは世界の光です。」と語り続けます。

5:14,15「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。」

 

「山の上にある町は隠れることができない」とは一般的な表現かもしれませんが、ユダヤの都エルサレムを指していた可能性もあります。何故なら、都エルサレムはシオンの山の上に建つ町で、旅人達は遠くからでもそれを目当てに歩くことができました。

また、あかりを枡の下に置くと言うのは、当時のユダヤの家ではよく行われていたことの様です。その頃庶民は小さな窓が一つだけの暗い家に住んでいました。よく使用されていたランプは深皿に油が一杯入った中にシンが一本浮いているタイプであったため、一旦火が消えると再度つけるのは容易なことではなかったのです。そのため、外出する際には火が消えてしまわない様、同時に用心のため、火がついたままのランプを土でできた枡の上に固定しておいたと言われます。

しかし、帰宅したら、人々は当然枡の下に置かれたランプは燭台の上に置くことになります。人々に見られ、人々を照らすのがランプの役割でしたから。イエス様は、私たちもこの世の人々に見られ、人々を照らすために存在していると教えているのです。

それでは、イエス様を信じる者が人々に見られ、人々を照らすとは、具体的にどのようなことなのでしょうか。

 

5:16「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

 

「あなたがたの光を人々の前で輝かせよ」とイエス様は命じています。人々の前でとは、家庭、職場、学校、地域などこの世でということです。このことばは私たちの心を探ります。

私の信仰は礼拝、賛美、奉仕、祈り、献金など、教会のなかだけで認められるものではなかったか。この世の生活の中で、私はキリスト教信仰をどのように表してきたのか。私たち皆が振り返るべき言葉ではないかと思います。

家庭における配偶者や子供に対する態度は支配的で、わがままではなかったかどうか。買い物や食事に出かけた店で、店員に対する態度は横柄ではなかったか。職場の部下のちょっとしたミスに腹を立て、必要以上に怒りを向けたことはないか。同僚や上司に対して尊敬を示し、協力的であったか。

イエス・キリストを知らない人々にとっては、ことばで伝える福音以上に私たちの生活と態度がキリスト教のすべてとみられることになります。

自己中心的な隣人の中にもあわれみ深く接する。嫌なことを言ってくる人、してくる人に言い返す、やり返すのではなく、柔和な態度で応じる。攻撃的な言動で責めてくる人に対しては、あくまでも平和を造ることにつとめる。

私たちは教会と同じく、この世のどこにいてもイエス・キリストを信じる者として、あの八福の教えにある通り振る舞うよう求められていることを覚えたいのです。

さらに心にとめたいのは、ここで「良い行い」と言われている「良い」には、「正しい、善い」と言う意味と「人々の心を惹きつける、魅力的な」と言う意味があると言うことです。

宗教改革者のルターは「水をくみ、皿を洗い、赤ん坊をあやし、ベッドを整えることは、キリストにある仕事で聖なるつとめである」と言いました。もし、私たちがそれら日常的な仕事を嫌々、重い義務の様に果たしているとしたら、周りの人はその様な私たちの存在に魅力を感じるでしょうか。どの様な会話にも聖書の話を持ち出す癖に、仕事に対し勤勉でも、協力的でもないクリスシャンは、人々にとって不愉快ではないでしょうか。

為すべき働きが何であろうと、勤勉に、朗らかに、他者を配慮しつつ働くように召されているのが、私たち神の民です。小さな事であろうと大きな事であろうと為すべきことを勤勉に、明るく、きちんとこなすクリスチャンは千のことばにもまさる証し人なのです。大人にも子どもにも、男性にも女性にも、気難しい人にも、キリスト教反対論者にも柔和に仕える人の生き方は周りの人にキリスト教が魅力的なものと感じさせる力がある様に思われます。

この世の人々は、私たちの行動を見て、クリスチャンが信じている神様とはどのようなお方なのかを思い、神様の存在に心を向けるのです。それを指してイエス様は「人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」と教えているのです。

良い行いをすること、神様のみ心に従うことが私たちの喜びであり。神様がこの世の人々に素晴らしいお方と認められることが私たちの最大の願いであるなら、このことばはイエス様からの励ましとして心に響いてきます。

最後に確認したいことが二つあります。ひとつめは、イエス様が私たちを地の塩、世界の光と呼び、この世に必要不可欠なものとしたのは、私たちがこの世を祝福するために生かされているからです。私たちが地の塩、世界の光として正しく行動する時、この世の人々は大きな影響を受けます。私たちを通して神様の祝福を受け取るのです。

人々は学校教育を通して知識を受け取ります。病院を通して癒し、健康回復を受けとります。様々な会社を通して生活に必要なものを受け取ります。しかし、この世界を創造した神様の祝福を人々が受け取れるのは、私たちを通してだけなのです。

二つ目は、人々が天の父に心を向けるような良い行いをなす力を、私たちはイエス様から受け取ると言うことです。今日の聖句です。

 

ヨハネ8:12「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 

 イエス様と私たちの関係は太陽と月の関係に譬えられます。月は自ら光り輝くことができない存在ですが、太陽の光を受ける時、それを反射し輝くことができます。同じく、私たちもイエス様との交わりの中を歩む時、いのちの光を持つことができると約束されています。イエス様の十字架の愛に憩い、イエス様がいつもともにおられることを覚えること。イエス様のみことばを聞き、イエス様だったらどう行動するのかよく考えること。この様なイエス様との交わりから、私たちはこの世を祝福する力を頂くことができるのです。

 私たちは皆この世界に必要不可欠な地の塩、世界の光として生かされていることを自覚したいと思います。罪に腐敗している世、暗闇の世界に生きる人々を祝福する者として生きる様にと言うイエス様のご期待を背中に感じながら、日々歩む者でありたいと思うのです。

2016年3月6日日曜日

マタイの福音書5章10節~12節「山上の説教(8)~義のために迫害されている者は~」


私たちはイエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教、いわゆる山上の説教を読み進めています。山上の説教は聖書に残されたイエス様の説教の中で最も有名なもの。「右の頬を打つ者には左の頬も向けよ」「豚に真珠」など一般的にも親しまれている名言、名句の宝庫でもあります。

この山上の説教を一つの建物に譬えるとすれば、その入口にあたるのが幸福の使信です。「心の貧しい人は幸いです」に始まり「義のために迫害されている者は幸いです」で終わっていますので、八福の教えとも呼ばれてきました。

ここには、イエス・キリストを信じた人の生き方、その姿が八つの面から描かれています。今までそのうちの七つを確かめてきました。即ち、神様の前に自分には何一つ良いものがなく、神様に信頼することしかできないと認めている心貧しい人。自分とこの世界の罪を心から悲しんでいる、悲しみの人。また、神様に愛される価値のない罪人の自分がいかに神様に良くしてもらっているかを覚え、へりくだった態度で生きる柔和な人。神様に喜ばれる義しい生き方を徹底的に追い求める義に飢え渇く人。神様のあわれみを受けた者として、他の人にもあわれみ深く接するあわれみ深い人。罪に汚れた心をきよくしてもらった心のきよい人。そして、平和をつくる人でした。

しかし、同時にこの八福の教えは,イエス様を信じる私たちが生涯をかけて目指す生き方、理想の姿でもあります。例えば、私たちは平和を造る者として生きることを願い、実践しますが、なかなか上手く行かないことが多いのではないでしょうか。平和をつくる者として生きることを忘れる程、強い怒りに捕われてしまうこともあるかと思います。

植物に譬えれば、私たちの内にある平和を造る能力は小さな芽の様なもの。確かに平和を造る者としての恵みを頂いていますが、さらに神様の助けをお借りして、この様な生き方を実践し、深め、平和を造る者として成長してゆく必要があるわけです。

同じことが他の教えにも当てはまるのですが、それでは、何故私たちはこの様な生き方を追い求めてゆくことができるのでしょうか。それは、神様が私たちを最終的に八福の教えに示された生き方ができる者、ことばを代えればキリストに似た者へと造り変えてくださることを約束し、保証してくださっているからです。

 

Ⅰヨハネ3:2,3「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」

 

罪深い私たちをキリスト似た者、きよい者へと造り変えてくださる神様を心から信頼し、安心しつつ、自らも八福の教えに取り組み続ける。それが、イエス様を信じる者の生き方であることを確認しておきたいと思います。

さて、私たちは「幸いな人」の姿をこれまで七つ見てきましたが、今日はいよいよ最後、第八番目の姿を見ることになります。

 

5:10「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」

 

 幸いな人の八番目の姿、それは意外にも「義のために迫害される」と言うものでした。イエス様を信じる私たちは「義のために迫害される」者となると言われるのです。

 八福の教えには私たちを驚かせるものがあり、「心の貧しい者は幸い」「悲しむ者は幸い」など、その様な状態にあって幸福を感じる人はいないだろうと思える教えが幾つかありました。しかし、この結びのことばには、一際驚かされます。

 迫害され、苦しめられて幸せだと言う人はいないでしょう。誰もが他の人々と平和にやってゆきたいと考えるはずです。しかし、昔から義に生きる人は迫害されると言う例は少なくありませんでした。

 聖書に記録された最初の殺人は、兄カインによる弟アベルへの迫害です。モーセは同胞イスラエルの民を救出しようとしてエジプト人の敵意に直面し、同胞からも攻撃されました。戦いに勝利したダビデはサウル王に妬まれました。心から仕えていた王によって執拗に命を狙われ、身も心もすり減らしたのです。忠実に仕える王ネブカデネザルが金の像を造り、それを拝めとの法律を定めた際、拝むことを拒んだダニエルは燃える炉に投げ込まれました。

 義のために迫害される。果たしてそんなことがあって良いのかと私たちは考えます。義しい行いは賞賛され、その様な人は尊敬されることはあっても、迫害など受けるはずがない。そう思えるところ、いやそう思いたいところですが、現実は逆とイエス様は語るのです。

 怠け者は一生懸命に生きる者を妬みます。悪に耽る者は義を実行しようと努める者の足を引っ張ります。罪ある者はイエス様を憎み、それゆえにイエス様を信じる者を憎むと言うのです。イエス様はこの世がいかに神様に背くものかを見抜いておられました。

 神様のみこころに従って生きる。イエス様とともに生きる。だからこそ疎んじられ、批判され、苦しめられることがあります。イエス様を信じたら良いことしか起こらない。万事物事が上手くゆき、人間関係も順調そのもの。もし、そうだとしたら、誰もが喜んでクリスチャンになるのかもしれません。

 ところが、イエス様は反対のことを言われる。イエス様を信じ、神様のみこころに従って生きようと努めた結果、迫害されることがあるとはっきり教えているのです。私たちはこのことばをどう受けとめたら良いのでしょうか。

 イエス・キリストを信じる者は、神様に従って生きるのか、それともこの世と妥協するのか。どちらかの選択を迫られることがあります。ですから「義のために迫害されるものは幸い」とのことばは、私たちの心を深く探るのです。

 これまでの歩みを振り変える時、果たして自分は義のために迫害されると言うことがあっただろうか。神様に従って生きることより、イエス様とともに生きることより、隣人の批判や世間の冷たい視線を恐れ、妥協する歩みとなってはいなかったか。このことばは、そう私たちの心に問いかけてきます。

 パウロとシラスがピリピの町で伝道していた時のこと。悪い霊に取りつかれていた可哀想な女性を二人が助けました。彼女を占い師として利用しこき使っていた主人が儲けが減ったことを恨み、嘘の証言で二人を訴えたため、彼らは鞭打たれ、投獄され、足かせをはめられると言う苦しみを受けることになったのです。

 それでは、義を行ったために迫害された二人が不満をこぼし、恨み言を吐き出していたのかと言うと、さにあらず。真夜中の獄中で、彼らは神様に祈り、賛美していたと言うのです。

 

 使徒16:25「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」

 

 あわれな女性を助けるという義を行ったため苦難を受けた男たちが不満や恨みを口にするどころか、神様を喜び、賛美していたと言うのですから、聞き入っていた囚人たちも驚いたことでしょう。まさに「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」と言うことばをそのまま実践している姿です。

義のために苦しめられた。それをもって神様の子どもとされたこと、天の御国を与えられたことを確認し、パウロとシラスが喜びを味わっている様子が目に浮かんできます。この様な生き方がキリスト教に人々の心を惹きつけ、イエス様を信じる人々が起こされる機会となったことは言うまでもありません。

勿論、クリスチャンが受ける迫害はこの時だけではありませんでした。キリスト教の歴史の中で、クリスチャンたちは様々な形で迫害を受けてきたのです。また、迫害は過去の歴史ではありません。特に21世紀は迫害の時代と言われます。歴史上、迫害に苦しむクリスチャンが最も多い世紀だったのです。今も、私たちの想像を絶する苦難の中、信仰を貫いて歩む宣教師や兄弟姉妹がどれだけいることでしょうか。

この地上で迫害の中に置かれても、神様に愛されている子どもであること、天の御国を受け継ぐ者であることを喜ぶ。それが、クリスチャンの歩み、私たちの生き方なのだと教えられます。

 但し、念のためですが、イエス様は「迫害に会いさえすれば幸いです」とは教えていません。「義のために」と言う条件が付いていました。つまり、神様のみこころに従って生きたその結果として批判されたり、苦しめられたりするなら、喜びなさいと言われるのです。

 個人的な失敗や怠慢、強情やわがままのために他人から叱責されても、このことばを持って喜ぶことはできないでしょう。

 また、私たちの応答の仕方も大切です。先回、イエス様を信じる者は平和を造る者として生きるようになることを確認しました。ですから、人から批判され、冷たく扱われ、苦しめられても、本当に難しいことですが私たちはあくまでも平和を造る者として応答することを目指すべきなのです。

 

 ローマ12:18~21「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

 

 「自分で復讐してはいけない」とは、怒りの感情に支配されて言われたら言い返したい、やられたらやり返したいと言う、私たちが持つ罪の性質を戒めることばです。たとえ相手の言動が悪であり、自分に非はなくても、相手に対するさばきは神様に委ねること、神様の子とされた私たちは相手が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませる、つまり敵の必要を満たすための親切な行いで反撃せよと言う勧めです。

 不当な苦しみを受けた時、天の御国をうけつぐ者とされたことを確認し喜ぶことは、私たちにとって祝福です。その喜びその自覚が、「善をもって悪に勝つ」と言う神様の子どもとしてふさわしい行動に私たちを導く力の源であることを、心に刻みたいと思います。

 ところで、この最後第八の教えは、他の教えの様に1節で終わりではありませんでした。さらにイエス様のことばが続きます。

 

 5:11,12「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」

 

 今までは、「心の貧しい人は幸いです。」と言う風に、一般的な表現でイエス様は語ってこられました。しかし、ここにきて、弟子たちに面と向かい、体を近づける様にして「あなたがたは幸いです。天においてあなたがたの報いは大きいのだから」と、彼らを直に励ます姿勢を取っておられます。

 ご自分に従う者がやがて受けることになる苦しみを思い、心を痛めながら、懸命に弟子たちを励ますイエス様の姿を眼に浮かべたいところ。ご自分に従う者が迫害を受けることを誰よりも心配し、心を痛め、熱いまなざしを注ぐイエス様の愛を私たち覚えたいところです。

 さらに、「あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」と言われたことも意味深く感じます。イエス様は、「義のために迫害されるのは決してあなたがただけではないのだよ。同じ苦しみと喜びを経験した信仰の仲間が沢山いるのだからね」と語りかけておられておられるようです。

 私たち人間にとって肉体的精神的苦しみそのものよりも、自分が経験している苦しみを誰も見ていてはくれない、誰も分かってはくれない、誰も受けとめてくれないと感じる孤独感の方がより苦しいと言われます。

 神様は私たちを交わりの中に生きるよう創造しました。私たちは自分が愛し合う交わりの中にいると感じられない時、非常に弱い者です。孤独の苦しみは私たちを肉体的精神的苦しみに耐える力を持つことができない状態へと追いやるのです。

 ですから、イエス様は私たちが信仰のゆえに苦しむ時、決して一人ではないこと、私たちの苦しみを思い、我がことの様に心痛めるイエス様がともにおれれること、苦しみを分かち合える信仰の仲間がいることを思い起こすようにと励ましておられます。

 私たちにはイエス様と愛の交わりがあること、同じ苦しみと喜びを経験した兄弟姉妹との交わりがあること、その二つの交わりは決してなくならないことを心にとめたいと思います。この二つの交わりに支えられて、神様のみ心を知り、従い続ける生き方を目指したいと思うのです。今日の聖句です。

 

 ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

2016年2月21日日曜日

ダニエル書2章20節~23節「一書説教 ダニエル書~苦難の中で~」


この世界の創り主を認めない、信じないで生きる時、生きる理由、目的を見定めることは非常に難しいこと。現代の多くの人が、生きる理由を考えることなく、生きていると思います。罪の一つの症状は、生きる目的が分からない。あるいは、そうすべきないことを生きる目的にしてしまうことでした。

世界の創り主を認め、キリストを信じた私たちは、今の時代、この地域で生きていることに、私たちに対する神様の目的があること。生きる目的、果たすべき使命は、自分で決めるのではなく、神様が与えて下さるものだと知りました。大きく言えば、私たちの生きる目的は、神様の素晴らしさをあらわし、神様を喜ぶこと。世界を祝福する使命です。

それでは、その生きる目的や使命を果たすために、具体的にどのように生きたら良いのか。それぞれ遣わされた場所で、一日をどのように使うのか。私たちは、祈りと御言葉(聖書を読む)を通して考えます。祈り、聖書を読み、それでもどのように生きるのか具体的なことは分からないことが多いですが、この地上での歩みが続く限り、繰り返し祈りと御言葉に取り組むのが私たちです。

一生涯かけて、聖書を読むことに熟練した者になりたい。私たち皆、毎日の生活の中で、聖書を身近に味わいたいと願い、断続的にですが一書説教に取り組んでいます。今日は第二十八回目の一書説教。扱うのは、旧約聖書第二十八の巻、ダニエル書です。

 国が亡びる大苦難の最中にあって、政治家であり預言者であるダニエルの言葉を読むことになります。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 まずはダニエル書の背景にあたるイスラエル民族の歴史を簡単に確認します。神様を無視して生きる人間が増え広がる世界にあって、人間のあるべき生き方を示す使命が「神の民」に与えられます。その「神の民」に選ばれたのが、アブラハムとその子孫。

 アブラハムの子孫は、イスラエル民族と呼ばれ、カナン(現在のパレスチナ)の地で、国家として成長します。ダビデ王、ソロモン王の時代、イスラエル王国は大繁栄をしますが、その後、王国が南北に分裂。

南北に分かれたアブラハムの子孫、神の民は、それぞれの歴史を歩むことになります。ところで、「神の民」として選ばれた者たちが、その使命を果たさない時。つまり神様を信じ、神様に従う生き方を止め、異教の神々、本来神でないものを拝するようになった時、裁きが下されるのですが、先に決定的な裁きが下されるのが、北王国。アッシリアに滅ぼされ、北イスラエルは民族としてのアイデンティティを失います。非常に残念な歴史。その後、神の民として残された南ユダは、国家として衰弱していき、最後にはバビロンに敗北します。

 南ユダの終末期。バビロンに敗北を繰り返しますが、その都度、財宝を奪われ、人も連れ去れます。大きく分けて三回。一回目の捕囚にて、ダニエルが連れて行かれ、二回目の捕囚でエゼキエルが。三回目の捕囚で神殿が破壊される決定的なバビロン捕囚となる。

 この時代、南ユダに残り活動したのがエレミヤ。バビロンに連れて行かれ民衆の中で預言者活動をしたのがエゼキエル。バビロンにて高い地位を得て活躍したのがダニエルとなります。

 ダニエルがどのような人物であったのか。次のように記されています。

 ダニエル1章3~4節、17節

王は宦官の長アシュペナズに命じて、イスラエル人の中から、王族か貴族を数人選んで連れて来させた。その少年たちは、身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者であった。

神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。

 

 王族、貴族の子ども。バビロンの王に仕えるのに相応しいと選ばれた少年。才色兼備の逸材。その信仰心も素晴らしく、神様はダニエルと友人たちに、特別な力を与えられたと記されています。その結果、バビロンの王に重宝され、支配国がペルシャに移った後も高い地位に就くことになる。奴隷の身でありながら、支配国の王に多大な影響を与えることになる人物。いかに神様に祝され、用いられた人物であったか分かります。その知恵も、高い地位も、自分のために用いるのではなく、神の民として相応しく用いることが出来た信仰者。大変魅力的。多くの人に愛され人物、日本のクリスチャンネームとして、ダニエルにあやかり「だん」と名付けられる人もいます。

 

全十二章のダニエル書ですが、丁度半分で分けることが出来、前半六章が歴史的記録。後半六章が、主に預言に関すること。

ダニエルは「すべての幻と夢とを解くことが出来た。」と言われていますが、前半の歴史的記録においても、後半の預言の箇所においても、幻や夢が多く出てきます。幻や夢にまつわる記述が多いことが、ダニエル書の一つの特徴となります。

 前半から概観していきます。教会学校などでもよく扱われる有名なエピソードがいくつも記録される箇所。

 一章は少年ダニエルがバビロンに連れて行かれ、王に仕える者として養育される記録。この時、旧約聖書が禁じているものは食べたくないとし、水と野菜だけを求めるダニエル。その上で、他の者たちよりも、健康であったと言います。奴隷として連れて行かれた地で、本気で聖書に従おうと生きたダニエル。その思いに、神様が応えて下さった場面。

 二章は大王ネブカデネザルが国中の知恵者を集め、自分の夢を解き明かせと命じる場面。とはいえ、夢の解き明かしなど何とでも言えるとして、本当にその者が解き明かしの力があるかどうかは、自分の見た夢を言い当てるようにと言うのです。誰もその夢を言い当てることが出来ない中で、ダニエルは王の見た夢を言い当て、その解き明かしをした記録。

 三章はネブカデネザル王が自分の巨大な黄金像を建て、それを拝むように迫る中、ダニエルの三人の友人が拝まなかったという場面。(この章では、ダニエルは登場しません。)王は怒り狂い、その三人を炎の中に投げ入れて殺すようにと命じるも、三人とも死なないどころか、服も燃えなかったという場面。大奇跡でした。

 四章は、再度、ネブカデネザルが見た夢の解き明かしの記録。ダニエルの夢の解き明かしを通して忠告を受けるも、変わらずに高ぶった王は理性を失い、しばらく獣のようになったという珍事。やがて理性を取り戻した王は、今さらながらに神様の主権を認めたと言われます。

 五章は時が進み、ベルシャツァル王の時代。王の宴会の最中に、宮殿に人の手の指が現れ、その壁に文字が記されたといいます。その文字を読み解ける者がいない中、ダニエルが解き明かし、ベルシャツァル王の治世が終わることを宣言。事実、その通りとなり、バビロンの時代から、ペルシャの時代へと移ります。

 

 ダニエル書の前半、歴史的記録の部分は、各章とも印象的、含蓄のある出来事だと思いますが、中でも六章は極めて印象的、有名であり、南ユダの人々にとって重要な出来事が記録されます。

ペルシャの王、ダリヨスが王となってすぐのこと。支配国が変わっても変わらず高い地位に就くダニエルを妬む者たちが現れます。権謀術策渦巻く中、何の落ち度も見いだせないダニエルを失墜させるため、提案された「三十日間、王以外に祈る者を獅子の穴に投げ込む」という法令。王はそれを認め、法令が成立する状況でダニエルは変わらず神様に祈ったと言います。

 ダニエルの祈りは、部屋の窓を開け、エルサレムへ向いて祈るもの。毎日、そのように祈っていたのです。

(何故、エルサレムを向いたのか。おそらくは、エルサレムの神殿が建てられた時、ソロモンの祈りが関係していると思います。第二歴代誌6章36節~39節参照。ダニエルからすれば約四百年前の祈り。しかし、まさにダニエルの状況であり、ソロモンの祈りに合わせて、ダニエルはエルサレムを向き祈っていたのだと思います。)

祈る時は窓を開けなければならないと聖書が教えているわけではありません。法令が出されている間、この三十日間は部屋の窓を閉めて祈れば良いのではないかと思うところ。しかしダニエルは部屋の窓を開けて祈ったため、それをとがめられ、獅子の穴に投げ込まれます。

 ところが、獅子の穴の中で、ダニエルは何の害も受けなかった。三章で三人の信仰者が炎から助け出されたのと同様、この時ダニエルは無傷のまま助け出され、この出来事を通して、ダリヨス王は次のように全土に宣言したと言います。

 ダニエル書6章25節~27節

そのとき、ダリヨス王は、全土に住むすべての諸民、諸国、諸国語の者たちに次のように書き送った。『あなたがたに平安が豊かにあるように。私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行ない、獅子の力からダニエルを救い出された。』

 

 この出来事はダリヨス王の治世が始まってすぐの出来事。(具体的な年数は記されていませんが。)そして、ダリヨスの第二年というのは、南ユダの人々には重要な年でした。それは神殿再建が妨害されていたところから、神殿再建へ取り組み始めた時。

 エズラ記4章24節

こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止された。

 

 妬みによって作られた法令。それでも、いつも通り祈るダニエル。その結果、獅子の穴に投げ込まれながら、奇跡的に助け出され、その姿を見た王が全土へダニエルの神を褒めたたえる宣言を出す。この出来事が、神殿再建へ影響を与えているように読めます。

 当然のこと、この出来事が神殿再建へ影響を与えるとダニエルが意識していたわけではないでしょう。ただ、信仰生活を大事にしていたというだけ。その一人の信仰者を通して、歴史を動かす神様の御手を見る箇所となります。

 

 以上が前半、歴史的記録となります。預言書の中では、比較的読みやすい箇所。七章から後半。幻による預言が多く出てきます。

 四つの獣の幻、雄羊と雄やぎの幻、七十週の預言、終末預言など。幻による預言のため、それが何を意味するのか。解釈が難しいところですが、その殆どがダニエルの時代からは未来の内容となります。

(解釈が難しいと言われますが、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマと続く支配者と、それにともなう苦難はよく示されています。ダニエルの時代からすればあまりに明確に未来のことが示されているため、聖書を神の言葉と信じない人たちは、ダニエル書自体、後代に書かれたものと受け止める程です。)

「永遠のいのち」という言葉が、聖書の中で最初に出てくるのがこのダニエル書の後半。人間は全て復活すること。永遠のいのちに復活する者と、永遠の忌みに復活する者がいることを明確に示すのも、ダニエル書の後半が最初です。ダニエルの預言によって、神学的思想が深まっているとも言えます。

 

 後半を読み、今回私が特に印象に残っているのは九章のダニエルの祈りです。

 ダニエル9章1節~3節

メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。

 

 ダニエルがエレミヤの文書を読む。エルサレムで語られたエレミヤの言葉が、時と場所を越えて、ダニエルのもとに届く。ここにもドラマがあったと思います。エレミヤの文書によって、ダニエルはエルサレムの荒廃、神殿が破壊されたままになっている年数は七十年と知ります。

これがいつのことかと言えば、ダリヨスの元年のこと。これは神殿が破壊されてから、もうすぐ七十年になる時です。(六十五年目と考えられます。)ダニエルの人生は、少年の時から捕囚の地に来て、多くの苦難を味わいます。時には命の危険を味わいながらも信仰を守り通しました。よくぞここまで信仰を守り通し、神様に与えられた使命を果たしてきたと、誰もが認めるような歩みです。

ところがエレミヤの文書を読んだダニエルは、ここで悔い改めたと言います。断食し、荒布をまとい、灰をかぶり、悔い改める。(その悔い改めの内容は、個人的な悔い改めだけでなく、神の民を代表する祈りとなっています。)大知恵者、信仰の偉人、ダニエルの最晩年の姿が、悔い改めの人であったとは、私たちが神様の前でどのように生きるべきなのか如実に教えるものでした。

 

 以上、簡潔にですがダニエル書を概観しました。あとはそれぞれ、読んで頂きたいと思います。大苦難の最中、神の民はどのように生きるべきなのか。神様は信仰者をどのように取り扱われるのか。かつての出来事を読むので終わるのではなく、今の私たちは神様の前でどのように生きるべきなのか、意識しつつ読み進めたいと思います。

 最後に一つのことを確認して終わりにしたいと思います。二章の場面。ネブカデネザル王が、自分の見た夢を明かさずに、夢の解き明かしをするよう命令を発し、誰も解き明かせない状況。ここで仲間とともに神様に願い、その答えを示された時のダニエルの賛美の言葉です。

 ダニエル2章20節~23節

ダニエルはこう言った。『神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。あなたは私に知恵と力とを賜い、今、私たちがあなたにこいねがったことを私に知らせ、王のことを私たちに知らせてくださいました。』

 

 ダニエルは自分に与えられた力を、神様から頂いたものだと理解していました。その力は、自分のために用いるのではなく、神様の素晴らしさをあらわすため、世界を祝福するために用いるべきものだと理解していたことが分かります。

 自分に与えられた情熱、力、経験、人間関係。それらは神様が下ったもの。その力をどのように用いるのか。私たちは祈りと御言葉のうちに考える必要があります。何のために、この情熱が与えられたのか。何のための力なのか。何のための経験なのか。信仰の大先輩、ダニエルの姿をならいつつ、神様の素晴らしさをあらわすため、世界を祝福するために、私たちの人生を使うことが出来るようにと願います。