2016年2月21日日曜日

ダニエル書2章20節~23節「一書説教 ダニエル書~苦難の中で~」


この世界の創り主を認めない、信じないで生きる時、生きる理由、目的を見定めることは非常に難しいこと。現代の多くの人が、生きる理由を考えることなく、生きていると思います。罪の一つの症状は、生きる目的が分からない。あるいは、そうすべきないことを生きる目的にしてしまうことでした。

世界の創り主を認め、キリストを信じた私たちは、今の時代、この地域で生きていることに、私たちに対する神様の目的があること。生きる目的、果たすべき使命は、自分で決めるのではなく、神様が与えて下さるものだと知りました。大きく言えば、私たちの生きる目的は、神様の素晴らしさをあらわし、神様を喜ぶこと。世界を祝福する使命です。

それでは、その生きる目的や使命を果たすために、具体的にどのように生きたら良いのか。それぞれ遣わされた場所で、一日をどのように使うのか。私たちは、祈りと御言葉(聖書を読む)を通して考えます。祈り、聖書を読み、それでもどのように生きるのか具体的なことは分からないことが多いですが、この地上での歩みが続く限り、繰り返し祈りと御言葉に取り組むのが私たちです。

一生涯かけて、聖書を読むことに熟練した者になりたい。私たち皆、毎日の生活の中で、聖書を身近に味わいたいと願い、断続的にですが一書説教に取り組んでいます。今日は第二十八回目の一書説教。扱うのは、旧約聖書第二十八の巻、ダニエル書です。

 国が亡びる大苦難の最中にあって、政治家であり預言者であるダニエルの言葉を読むことになります。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 まずはダニエル書の背景にあたるイスラエル民族の歴史を簡単に確認します。神様を無視して生きる人間が増え広がる世界にあって、人間のあるべき生き方を示す使命が「神の民」に与えられます。その「神の民」に選ばれたのが、アブラハムとその子孫。

 アブラハムの子孫は、イスラエル民族と呼ばれ、カナン(現在のパレスチナ)の地で、国家として成長します。ダビデ王、ソロモン王の時代、イスラエル王国は大繁栄をしますが、その後、王国が南北に分裂。

南北に分かれたアブラハムの子孫、神の民は、それぞれの歴史を歩むことになります。ところで、「神の民」として選ばれた者たちが、その使命を果たさない時。つまり神様を信じ、神様に従う生き方を止め、異教の神々、本来神でないものを拝するようになった時、裁きが下されるのですが、先に決定的な裁きが下されるのが、北王国。アッシリアに滅ぼされ、北イスラエルは民族としてのアイデンティティを失います。非常に残念な歴史。その後、神の民として残された南ユダは、国家として衰弱していき、最後にはバビロンに敗北します。

 南ユダの終末期。バビロンに敗北を繰り返しますが、その都度、財宝を奪われ、人も連れ去れます。大きく分けて三回。一回目の捕囚にて、ダニエルが連れて行かれ、二回目の捕囚でエゼキエルが。三回目の捕囚で神殿が破壊される決定的なバビロン捕囚となる。

 この時代、南ユダに残り活動したのがエレミヤ。バビロンに連れて行かれ民衆の中で預言者活動をしたのがエゼキエル。バビロンにて高い地位を得て活躍したのがダニエルとなります。

 ダニエルがどのような人物であったのか。次のように記されています。

 ダニエル1章3~4節、17節

王は宦官の長アシュペナズに命じて、イスラエル人の中から、王族か貴族を数人選んで連れて来させた。その少年たちは、身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者であった。

神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。

 

 王族、貴族の子ども。バビロンの王に仕えるのに相応しいと選ばれた少年。才色兼備の逸材。その信仰心も素晴らしく、神様はダニエルと友人たちに、特別な力を与えられたと記されています。その結果、バビロンの王に重宝され、支配国がペルシャに移った後も高い地位に就くことになる。奴隷の身でありながら、支配国の王に多大な影響を与えることになる人物。いかに神様に祝され、用いられた人物であったか分かります。その知恵も、高い地位も、自分のために用いるのではなく、神の民として相応しく用いることが出来た信仰者。大変魅力的。多くの人に愛され人物、日本のクリスチャンネームとして、ダニエルにあやかり「だん」と名付けられる人もいます。

 

全十二章のダニエル書ですが、丁度半分で分けることが出来、前半六章が歴史的記録。後半六章が、主に預言に関すること。

ダニエルは「すべての幻と夢とを解くことが出来た。」と言われていますが、前半の歴史的記録においても、後半の預言の箇所においても、幻や夢が多く出てきます。幻や夢にまつわる記述が多いことが、ダニエル書の一つの特徴となります。

 前半から概観していきます。教会学校などでもよく扱われる有名なエピソードがいくつも記録される箇所。

 一章は少年ダニエルがバビロンに連れて行かれ、王に仕える者として養育される記録。この時、旧約聖書が禁じているものは食べたくないとし、水と野菜だけを求めるダニエル。その上で、他の者たちよりも、健康であったと言います。奴隷として連れて行かれた地で、本気で聖書に従おうと生きたダニエル。その思いに、神様が応えて下さった場面。

 二章は大王ネブカデネザルが国中の知恵者を集め、自分の夢を解き明かせと命じる場面。とはいえ、夢の解き明かしなど何とでも言えるとして、本当にその者が解き明かしの力があるかどうかは、自分の見た夢を言い当てるようにと言うのです。誰もその夢を言い当てることが出来ない中で、ダニエルは王の見た夢を言い当て、その解き明かしをした記録。

 三章はネブカデネザル王が自分の巨大な黄金像を建て、それを拝むように迫る中、ダニエルの三人の友人が拝まなかったという場面。(この章では、ダニエルは登場しません。)王は怒り狂い、その三人を炎の中に投げ入れて殺すようにと命じるも、三人とも死なないどころか、服も燃えなかったという場面。大奇跡でした。

 四章は、再度、ネブカデネザルが見た夢の解き明かしの記録。ダニエルの夢の解き明かしを通して忠告を受けるも、変わらずに高ぶった王は理性を失い、しばらく獣のようになったという珍事。やがて理性を取り戻した王は、今さらながらに神様の主権を認めたと言われます。

 五章は時が進み、ベルシャツァル王の時代。王の宴会の最中に、宮殿に人の手の指が現れ、その壁に文字が記されたといいます。その文字を読み解ける者がいない中、ダニエルが解き明かし、ベルシャツァル王の治世が終わることを宣言。事実、その通りとなり、バビロンの時代から、ペルシャの時代へと移ります。

 

 ダニエル書の前半、歴史的記録の部分は、各章とも印象的、含蓄のある出来事だと思いますが、中でも六章は極めて印象的、有名であり、南ユダの人々にとって重要な出来事が記録されます。

ペルシャの王、ダリヨスが王となってすぐのこと。支配国が変わっても変わらず高い地位に就くダニエルを妬む者たちが現れます。権謀術策渦巻く中、何の落ち度も見いだせないダニエルを失墜させるため、提案された「三十日間、王以外に祈る者を獅子の穴に投げ込む」という法令。王はそれを認め、法令が成立する状況でダニエルは変わらず神様に祈ったと言います。

 ダニエルの祈りは、部屋の窓を開け、エルサレムへ向いて祈るもの。毎日、そのように祈っていたのです。

(何故、エルサレムを向いたのか。おそらくは、エルサレムの神殿が建てられた時、ソロモンの祈りが関係していると思います。第二歴代誌6章36節~39節参照。ダニエルからすれば約四百年前の祈り。しかし、まさにダニエルの状況であり、ソロモンの祈りに合わせて、ダニエルはエルサレムを向き祈っていたのだと思います。)

祈る時は窓を開けなければならないと聖書が教えているわけではありません。法令が出されている間、この三十日間は部屋の窓を閉めて祈れば良いのではないかと思うところ。しかしダニエルは部屋の窓を開けて祈ったため、それをとがめられ、獅子の穴に投げ込まれます。

 ところが、獅子の穴の中で、ダニエルは何の害も受けなかった。三章で三人の信仰者が炎から助け出されたのと同様、この時ダニエルは無傷のまま助け出され、この出来事を通して、ダリヨス王は次のように全土に宣言したと言います。

 ダニエル書6章25節~27節

そのとき、ダリヨス王は、全土に住むすべての諸民、諸国、諸国語の者たちに次のように書き送った。『あなたがたに平安が豊かにあるように。私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行ない、獅子の力からダニエルを救い出された。』

 

 この出来事はダリヨス王の治世が始まってすぐの出来事。(具体的な年数は記されていませんが。)そして、ダリヨスの第二年というのは、南ユダの人々には重要な年でした。それは神殿再建が妨害されていたところから、神殿再建へ取り組み始めた時。

 エズラ記4章24節

こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止された。

 

 妬みによって作られた法令。それでも、いつも通り祈るダニエル。その結果、獅子の穴に投げ込まれながら、奇跡的に助け出され、その姿を見た王が全土へダニエルの神を褒めたたえる宣言を出す。この出来事が、神殿再建へ影響を与えているように読めます。

 当然のこと、この出来事が神殿再建へ影響を与えるとダニエルが意識していたわけではないでしょう。ただ、信仰生活を大事にしていたというだけ。その一人の信仰者を通して、歴史を動かす神様の御手を見る箇所となります。

 

 以上が前半、歴史的記録となります。預言書の中では、比較的読みやすい箇所。七章から後半。幻による預言が多く出てきます。

 四つの獣の幻、雄羊と雄やぎの幻、七十週の預言、終末預言など。幻による預言のため、それが何を意味するのか。解釈が難しいところですが、その殆どがダニエルの時代からは未来の内容となります。

(解釈が難しいと言われますが、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマと続く支配者と、それにともなう苦難はよく示されています。ダニエルの時代からすればあまりに明確に未来のことが示されているため、聖書を神の言葉と信じない人たちは、ダニエル書自体、後代に書かれたものと受け止める程です。)

「永遠のいのち」という言葉が、聖書の中で最初に出てくるのがこのダニエル書の後半。人間は全て復活すること。永遠のいのちに復活する者と、永遠の忌みに復活する者がいることを明確に示すのも、ダニエル書の後半が最初です。ダニエルの預言によって、神学的思想が深まっているとも言えます。

 

 後半を読み、今回私が特に印象に残っているのは九章のダニエルの祈りです。

 ダニエル9章1節~3節

メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。

 

 ダニエルがエレミヤの文書を読む。エルサレムで語られたエレミヤの言葉が、時と場所を越えて、ダニエルのもとに届く。ここにもドラマがあったと思います。エレミヤの文書によって、ダニエルはエルサレムの荒廃、神殿が破壊されたままになっている年数は七十年と知ります。

これがいつのことかと言えば、ダリヨスの元年のこと。これは神殿が破壊されてから、もうすぐ七十年になる時です。(六十五年目と考えられます。)ダニエルの人生は、少年の時から捕囚の地に来て、多くの苦難を味わいます。時には命の危険を味わいながらも信仰を守り通しました。よくぞここまで信仰を守り通し、神様に与えられた使命を果たしてきたと、誰もが認めるような歩みです。

ところがエレミヤの文書を読んだダニエルは、ここで悔い改めたと言います。断食し、荒布をまとい、灰をかぶり、悔い改める。(その悔い改めの内容は、個人的な悔い改めだけでなく、神の民を代表する祈りとなっています。)大知恵者、信仰の偉人、ダニエルの最晩年の姿が、悔い改めの人であったとは、私たちが神様の前でどのように生きるべきなのか如実に教えるものでした。

 

 以上、簡潔にですがダニエル書を概観しました。あとはそれぞれ、読んで頂きたいと思います。大苦難の最中、神の民はどのように生きるべきなのか。神様は信仰者をどのように取り扱われるのか。かつての出来事を読むので終わるのではなく、今の私たちは神様の前でどのように生きるべきなのか、意識しつつ読み進めたいと思います。

 最後に一つのことを確認して終わりにしたいと思います。二章の場面。ネブカデネザル王が、自分の見た夢を明かさずに、夢の解き明かしをするよう命令を発し、誰も解き明かせない状況。ここで仲間とともに神様に願い、その答えを示された時のダニエルの賛美の言葉です。

 ダニエル2章20節~23節

ダニエルはこう言った。『神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。あなたは私に知恵と力とを賜い、今、私たちがあなたにこいねがったことを私に知らせ、王のことを私たちに知らせてくださいました。』

 

 ダニエルは自分に与えられた力を、神様から頂いたものだと理解していました。その力は、自分のために用いるのではなく、神様の素晴らしさをあらわすため、世界を祝福するために用いるべきものだと理解していたことが分かります。

 自分に与えられた情熱、力、経験、人間関係。それらは神様が下ったもの。その力をどのように用いるのか。私たちは祈りと御言葉のうちに考える必要があります。何のために、この情熱が与えられたのか。何のための力なのか。何のための経験なのか。信仰の大先輩、ダニエルの姿をならいつつ、神様の素晴らしさをあらわすため、世界を祝福するために、私たちの人生を使うことが出来るようにと願います。

2016年2月14日日曜日

マタイの福音書5章9節「山上の説教(7)~平和をつくる者は~」


私たちはイエス・キリストが故郷の山で語られた説教、いわゆる山上の説教を読み進めています。その冒頭、山上の説教を一つの建物に譬えれば入口にあたるのが幸福の使信です。「心の貧しい人は幸いです」に始まり「義のために迫害されている者は幸いです」で終わる八つのことばから成っていますので、八福の教えとも呼ばれてきました。

 元々は八つの教えのすべてが「幸いなるかな」と言うことばで始まっていまから、イエス様による幸福論と言えるでしょうか。イエス様が「人間として幸いなのはこの様な人ですよ」と、山上から声高らかに語られた姿を私たち眼に浮かべたいところです。

 八福の教えはキリストを信じる人の姿を様々な角度から描いています。キリストを信じる人はどの様な生き方ができるようになるのかを八つの側面から描いていると言っても良いでしょう。ですから、これを読むたびに私たちは自分の罪を示され、心探られます。と同時に、キリストを信じる者に与えられる恵み、祝福がいかに大きなものかを確認することができるのです。

 さて、今日私たちが見る幸いな人の姿は第七番目。「平和をつくる人」でした。

 

 5:9「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもとよばれるから。」

 

 先ず心を留めたいのは、イエス様が「平和をつくる者は幸い」と言われたことです。普通私たちは「平和な家庭に生まれた人は幸いです」と考えます。「平和な社会に暮らす人は幸いです」とも言うでしょう。しかし、イエス様は「平和をつくる者は幸い」と教えられました。何故でしょうか。

 平和は古今東西、誰からも望まれ期待されてきたものです。私の高校時代の友人は子どもに平和な人生を送って欲しいと願い、名前に平和の和の字を入れることに拘っていました。長男は和男、長女は和子、次女が和美で次男は和人。もし、五人目が生れたら何と名づけるつもりだったのか聞いてみたい気がします。

旧約聖書に非常に繁栄した王様として登場する有名なソロモンはその名が平和を意味していました。戦いに明け暮れた父ダビデ王が、これからの時代はわが子も国民も平和である様にと願い命名したのでしょう。日本やユダヤに限らず、平和を願い名をつけられた人は数多いと思われます。

いつの時代も、あらゆる人が願ってきた平和。しかし、人類の歴史を振り返る時、また現在の世界を見る時、平和とは遠くかけ離れた状態にあります。多くの人が指摘していることですが、歴史上戦争がない時代は皆無か、あったとしてもごく僅かと言われます。

20世紀は第一次世界大戦、第二次世界大戦と二つの悲惨な戦争を経験しました。戦後世界平和のため結成された国際連合も上手く機能せず、世界はアメリカを中心とした国とソ連を中心とした国に分かれ東西冷戦。コールドウォー、武器を使わない冷たい戦争と呼ばれる時代となります。ようやくベルリンの壁が崩れ、平和な世界が来ると期待されましたが、その後も戦争、内戦、弾圧、テロは絶えず、平和は遠のくばかりという気がします。

ここ70年戦争がない日本は、世界の中で見れば稀に見る平和な国と言えますが、殺人、強盗、いじめ、リンチ等のニュースは日々絶えることがありません。

何故、私たちの住む世界はどこもかしこもこの様な状態になってしまったのでしょうか。聖書は人間が神様に背いて以来、平和が失われたと教えています。

人類の先祖アダムとエバは神様に背いた時、最初に行ったのは夫婦喧嘩でした。二人の子どもカインは弟を妬み、殺してしまいます。カインの子孫レメクは立派な町を立てますが、そこは暴力が支配する恐ろしい場所でした。さらに時代が下ってノアの時代になると、世界中に暴虐が蔓延り、その余りの酷さに神様は大洪水をもって世界をさばくこととなります。

それでは、大洪水に懲りた人間が心を入れ替え世界は平和になったのかと言うと、さにあらず。人間の罪の酷さは相変わらずでしたが、神様が忍耐とあわれみによってこの世界を支え、守っていてくださるからこそ、人類の歴史は続いてきたと聖書は語るのです。

大は国と国との戦争、民族の対立、宗教紛争から、小は夫婦、親子、兄弟の争い、隣人との気まずい関係等々。この様に創造の最初、平和であった世界がそこから落ちて悲しむべき状態にあるのは、私たち人間の中にある罪に問題がある。これを自覚することが平和に取り組む上での大前提ではないかと思います。

イエス様は私たちの心にある罪が争い、対立を生むとずばり教えています。

 

マルコ7:20~23「…『人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』」

 

何故、イエス様が「平和な世界に暮らす人は幸いです」ではなく、「平和をつくる者は幸い」と教えられたのか。それは、私たちの日常生活の中に争いの源である敵意、争い、欲望、ねたみ、悪口、高ぶりが絶えないからです。それと取り組むことなしに、平和な状態はありえないからです。

つまり、平和とは自然とそこにあるものではないということです。お互いに愛し合う平和な関係は、自動的に生まれてくるものではないということです。私たちが自分の罪と取り組み、作り出してゆくべきもの、それがイエス様の言う平和であることを心に刻みたいと思います。

それでは、平和をつくるため私たちは具体的にどうすれば良いと聖書は教えているでしょうか。第一は、争いを避けること、自分が争いのもととならないこと。その為にことばや態度を自制することです。

 

ヤコブ1:19「…だれでも聞くに早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」

 

「語るには遅くしなさい」とはどういうことでしょうか。私たちは人に何か言われるとそれに言い返したいと言う思いに駆られます。それを言うことは自分の権利だと考える場合もあるでしょう。しかし、そうした感情に駆られて言いたいことを言って問題が解決したと言う経験があるでしょうか。殆どの場合、火に油を注ぐ如く、対立は深まることになるのです。

「語るには遅くしなさい」とは、その様な場合、相手に対する攻撃的なことばや態度を自制することです。もし、どうしても言いたいことがあるなら、どうしたら相手を責めることなく、自分の思いを伝えられるか神様の前で良く考えてから語るということなのです。

また、人に害を及ぼすことが分かっている場合には、第三者から聞いたことを別の人に漏らしたり、伝えたりしないこと。噂や悪口の伝え手にならないことです。旧約聖書の箴言にはこうあります。

 

箴言16:28「陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。」

 

他方「聞くには早くしなさい」とはどういうことでしょうか。相手の思いやことばを聞く耳を持てということです。

一般的に怒りは起こった出来事とそれに対する解釈から起きると言われます。例えば、ある人が大切なミーティングの最中に眠そうでコックリコックリしていたとします。これを見て「集中力が足りない」とか「この仕事に不熱心だ」と解釈すれば、その人の心には怒りが湧いてきます。

しかし、私たちの見方、解釈はしばしば自己中心的ですから、そうする前に相手の思いを聞くよう、聖書は勧めているのです。この場合、もし相手に眠気の理由を尋ね、やむを得ぬ事情があることが分かれば、怒りは和らぎ相手を責める程の事ではないと心が落ち着きます。

感情的なことばや態度を自制すること、自分勝手な解釈で相手を責め対立の原因をつくるのではなく、相手の状態をよく聞き、理解する耳を持つこと。平和をつくる人とはこの様な人であることを覚えたいのです。

第二は、自ら進んで平和をつくりだす者になることです。イエス様は平和をつくりだすと言う行いが非常に大切であることを強く説いています。

 

マタイ5:23,24「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」

 

祭壇の上に供え物をささげるとは、今で言えば礼拝です。ここで言う兄弟は血の繋がった家族だけでなく、自分の知人、友人など近しい関係にある人すべてを指しています。

もとより、私たちにとって神様を礼拝することは最優先事項です。しかし、イエス様はたとえ大切な礼拝の途中であっても、仲たがいしている人、気まずい関係にある人のことを思い起こしたら、仲直りしにゆくよう命じているのです。

この場合、仲たがいの原因が自分の側にあるのか、相手の側にあるのかは語られていません。つまり、自分の側に非がある場合はもちろん、相手に非がある場合であっても自分の方から出向くべきだと言うのです。いかにイエス様が平和をつくるための行動を大切に考えておられたかを教えられるところです。

私たちの怒りは身近な人、家族や友人に向きやすいと言われます。深刻な争いや対立も、身近な人との間に生まれやすいのです。また、世界平和を願うこと唱えることは誰でもできますが、身近な人を愛し、平和な関係を築くことがいかに難しいか。皆様も感じることがあるのではないでしょうか。

神様が私たちに与えてくれた大切な人間関係を思い出してほしいと思います。夫、妻、親、子ども、教会の兄弟姉妹、先輩や後輩、地域の隣人。その中に、憎しみ、妬み、高慢、無関心など平和とは程遠い関係にある人はいないでしょうか。表立って言い合うことはないけれど、冷たい戦争状態と言う関係はないでしょうか。

自分としては身に覚えがあってもなくても、自分の言動で苦しんでいる人がいる。もし神様がその様な人の存在を示して下さったら、その人の苦しみを思い遣り、自分から近づき、心の思いを聞くこと。謝るべきことを謝り、伝えるべきことを伝えること。その人との平和をつくるためには何でもする。日常生活の中で目の前にいる人、神様が身近に置かれた人々と平和な関係をつくるべくつとめる。この様な生き方を私たち目指したいと思います。

さて、この様に平和をつくる人に対する祝福は何でしょうか。イエス様は「その人は神の子と呼ばれる」と言われました。ところで、平和をつくる人は、誰から神の子と呼ばれるのでしょうか。

一つは神様が私たちを神の子どもと呼んでくださると考えられます。イエス・きリストを信じる者はただそれだけで神の子とされる。これが聖書の教えです。しかし、ここで言われているのは、神の子となるではなく神の子と呼ばれることです。「呼ばれる」には「認められる、評価される、褒められる」と言う意味がありますから、平和をつくることにつとめる者は神様から認められ、褒められる。その様な祝福を頂けると言うのです。

世界を創造した全能の神が無に等しい私たちを、心からご自分の子と認め、喜び、褒めてくださる。人として最高の祝福であり、喜びと感じます。

更に周囲の人からそう呼ばれるとするなら、これも嬉しいことです。聖書で「~の子」と言う時、文字通りの親子関係ではなく「生き方や性質がある人、ある物に似ている人」と言う意味で使われる場合があります。この場合もそれに当てはまるとも考えられます。

平和をつくる働きを通して私たちが神の子ども、つまり平和の神に似ていると人と認められるとしたら、これも神様からの祝福ではないでしょうか。神様から平和をつくる者と認められる歩み、周りの人からも平和をつくる人として喜ばれる歩み。それが私たちにとって真に幸いな生き方であることを心にとめたいと思います。

最後に確認しておきたいことがあります。皆様もそう感じられたと思いますが、平和をつくると言う働きは到底自分ひとりでは為しえないものです。平和をつくる人は幸いと言われても、あなた一人で頑張りなさいと言われたら、誰でも尻込みをしてしまうでしょう。

しかし、安心してください。聖書はこの働きを私たちが神様とともに、また教会の兄弟姉妹とともに行うよう勧めているからです。

私たちが平和をつくる力はどこから来るのでしょうか。先ず、それは神様との平和から与えられます。皆様はキリストの十字架の死によって自分のあらゆる罪が赦され、最早神様が自分の罪を責めず、さばかず、愛する子どもとして受け入れてくださっていることを信じ、実感しているでしょうか。

神様と平和な関係にあるなら、平和をつくる働きに失敗しても失望したり、恐れたりすることはありません。平和の神がともにいてくださるからです。神様との平和、神様と安心できる関係にあることが、平和をつくる力の源であることを確認したいと思います。

また、兄弟姉妹との平和な関係も、大いなる助けです。自分の弱さを言える人。それを知ったうえで受け入れてくれる人、祈ってくれる人、アドバイスや励ましを与えてくれる人。私たちがその様な関係をつくってゆけるよう、神様は教会を建ててくださったのです。

 

ローマ12:17,18「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

 

2016年2月7日日曜日

マタイの福音書5章8節「山上の説教(6)~心のきよい者は~」


一月は第二週のウェルカム礼拝を除き、信仰生活の基本について礼拝説教で扱ってきました。12月最後の週以来となりますが、今日からは再び山上の説教を皆様とともに読み進めてゆきたいと思います。

今日の5章8節は、イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた山上の説教の冒頭に置かれた幸福の使信の中のことばです。ここは「心の貧しい者は幸いです」から始まり「義のために迫害されている者は幸いです」で終わる八つの幸いな生き方が教えられていることから、八福の教えとも呼ばれてきました。

そして、八福の教えは最初と最後が「天の御国はその人のものだからです」という共通の祝福で始まり閉じられていることから、イエス様を救い主と信じ救われた者、つまり私たちクリスチャンのための教えと考えられます。

しかし、八福の教えの中でも今日のことばは昔から難しいものとされてきました。何故なら、少し前の4節では「悲しむ者つまり自分の罪、心の汚れを悲しむ者は幸いです」とイエス様は言われたのに、ここでは「心のきよい者は幸いです」とまるで正反対のことを教えているように見えます。また、聖書の他の箇所では「神様は霊であり眼に見えない方」と言われていますのに、イエス様は「心のきよい者は神を見ることができる」と断言しておられる。一体どう考えればよいのでしょうか。

何よりも、心の思いにおいても、行いにおいても自分がきよいとは全く思えない者にとっては、「心のきよい者は幸いです」と言われても、ちっとも嬉しく思えない。むしろ「自分にはどうにもならない。自分などとてもこの様な生き方はできない」とガッカリしてしまう人が多いのではないでしょうか。

そこで、この教えを理解するため、最初に皆様と読んでみたいのがイエス様が語られた「パリサイ人と収税人」のと譬えです。

 

ルカ18:9~14「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 

先ず登場するのはパリサイ人の姿です。パリサイ人とはその頃の宗教指導者、人々の尊敬厚いエリートでした。この人はそれにふさわしい生活を送っているように見えます。人を強請る、不正を働く、姦淫等の汚れた行いには決して手を染めず、断食や献金など正しい行いに人並み以上に励んでいるからです。彼がこの様な生活に満足し、幸福を感じていることがそのことばから伺えます。

しかし、イエス様は「この人は神様から義と認められなかった」と言われます。この人自身は自分の生活、生き方を幸いと感じていましたが、神様の眼から見るなら全く幸いではない、悲惨な状態にあったと言うことです。それは、この人が自分を義人つまりきよい人間と思い込む高慢と隣にいた収税人を見下す、馬鹿にすると言う罪で一杯であったのに、心の汚れに気がついていなかったと言う点にあります。

想像してみてください。今皆様の前に深刻な病気を抱えているのに、自覚症状がないかあるいはそれを軽く考えているために、自分は全く健康だと思い込んでいる人がいたとしたら、その人は幸いでしょうか。むしろ、病気を自覚せず医者を頼る必要すら感じていないその状態は極めて悲惨と言えるのではないでしょうか。

自分は神様のあわれみを必要としないきよい人間だと思う高慢と、人を見下すと言う、イエス様の教えによれば心の殺人と言う罪に気がついていないパリサイ人は、この様な意味で、イエス様から悲惨であると言われたのです。

それに対して、収税人は世間の嫌われ者。パリサイ人が言ったように人を脅す、不正を働く、姦淫等様々な酷いことを行ってきたのでしょう。しかし、この時彼は神様の前に出て、自分の心と行いとがいかに罪で汚れているかを思い、深く悲しんでいます。「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った」と言う行動が、自分に対する失望、罪に対する悲しみを表わしているように思えます。そして、彼が願ったのはただ一つ神様のあわれみでした。「神様。こんな罪人の私をあわれんでください。」

取税人は自分の行いと心の汚れを悔い、悲しむ思いで一杯でした。あのパリサイ人の様に満足や幸福を感じていなかったでしょう。しかし、イエス様は「この人こそ神様から義と認められた人」、つまり神様から見て幸いな人と言われたのです。

イエス様が「幸い」と言われた心のきよい人とは、この収税人の様な人と考えられます。自分の罪を心底悲しみ神様のあわれみによる赦しを求める人。自分の汚れた心、ことば、行いをきよめてくださるよう神様にお願する人。これが心のきよい人です。

それでは、心のきよさを求める人は具体的に何をするのでしょうか。旧約聖書詩篇の中に、私たちの参考になる信仰者の行動が記されています。

 

詩篇139:23,24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

 

この詩篇の作者はダビデとされています。ダビデと言えばイスラエル史上最高の王。最強の戦士。音楽の名手にして詩人。ダビデこそ自分を誇ってもおかしくない人と思われます。

しかし、ダビデは自分の生活を調べること、心の動機、口にしたことば、行動の調査を神様にお願しているのです。自分が反省するだけでは気がつかない罪の思いや行動を神様に調べてもらい、教えて欲しいと願っています。自分にはその力がないので、神様に自分をとこしえの道に導いてほしい、つまりきよい生き方へ導いてほしいと切に願っているのです。

果たして、私たちはどれ程きよい生き方を求めているでしょうか。その点における自分の無力を認め、神様により頼み、お願いしているでしょうか。憎しみや怒り欲情でどうにもできない心を神様が変えていただく、きよめていただくと言う経験があるでしょうか。

聖書において、ダビデは何度も神様に愛された人と呼ばれています。彼がそう呼ばれたのは罪を犯さないきよい人だったかったからでもありません。事実彼はさばかれるべき酷い罪を何度も犯しています。

それならば、何故神様に愛されたのか。それは、ダビデが生涯を通して、自分の罪に目を留め、それを悔い悲しんだからです。罪人の自分を神様に変えて頂くことを切に願い続けたから、自分をきよめてくださるお方としてただお一人神様を信頼していたからです。

私たちも「心のきよい者は幸いです」と言うことばを聞いて、自分は心がきよくないから駄目だと思うのではなく、これ程心の汚れた自分でも神様は心のきよい者へと造り変えてくださると信頼すること。これが、心のきよい人の生き方、真に幸いな生き方であることを心に刻みたいと思います。

それでは、心のきよい人が受ける恵みとは何でしょうか。それは神を見ることとイエス様は言われます。しかし、私たちはどのようにして神様を見るのか。昔から様々に議論されてきた問題です。聖書が約束しているのは、私たちは最終的に天国において顔と顔を合わせる様にして神様を見ることができるということです。

イエス様は肉体を持っていますから、少なくともイエス様のお顔をこの眼で見ることはできると思います。しかし、霊である父なる神様と聖霊の神様をどのようにして見ることができるのか。聖書は明確に教えていないように見えます。けれども、「見る」と言うことばには「眼で見る」と言う意味の他に「知る」と言う意味もありますから、父なる神様、聖霊なる神様とも顔と顔を合わせるのと同じぐらい身近で、親しく知りあう関係に入ることは間違いないでしょう。いずれにしても天国における三位一体の神様との出会いは、私たちにとって心からの楽しみです。

しかし、この地上においても、私たちは神を見ることができるのです。この大自然の中に神様の御手を見ていたのはイエス様です。野の花をご覧になったイエス様は弟子たちに向かいこう言われました。

 

マタイ6:29、30「しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」

 

イスラエル史上最高と言われたソロモン王の繁栄。それ以上に美しく野の花を創造した神様をイエス様は見ていたのです。

昆虫記で有名なファーブルは「虫の詩人」と言われます。子どもの頃私はこの本が大好きでした。小さな虫たち、何のためにいるのか分からない様な昆虫や生き物が、驚くべき能力を持つ生き物であることを教えてくれ、夢中になりました。

ファーブルは当時流行していた進化論に反対で、小さな昆虫それぞれが神様に造られた独自の生き物と考えていたそうです。カマキリ、ミノムシ、モンシロチョウ、セミ、アリにフンコロガシ等々。数え切れない程の小さな生き物の中にファーブルは神様の存在を見ていたのです。

また、「宇宙は第二の聖書」と語ったニュートンは木から落ちたリンゴと万有引力の法則の発見で有名です。晩年「あなたは本当に多くの発見をしてきましたね」と人から賞賛されたところ、「私が発見したものなど、神様が造られた自然法則のごく一部に過ぎない。砂浜の中の小さな砂粒の様なもの」と答えたそうです。ニュートンは自然法則にこの世界を創造した神様を見ていたと言えるでしょうか。

私たちも、イエス様やファーブル、ニュートンの様に大自然の中に神様を見る心の眼を与えられています。ある人は海に沈む夕日に、ある人は聳え立つ山に、ある人は季節ごとに色を変える木々の葉に、ある人は野に咲く花に、ある人は動物や昆虫に。ある人は夜空に煌めく星に。様々な自然に神様を見ることができる眼が開かれたことを感謝したいと思います。

さらに、私たちは人生の様々な出来事のなかにも神様を見ることができます。

神様を知らなかった時、仕事での成功、経済的な豊かさは、私たちにとって自分の才能と努力の結果でした。しかし、今はそこにそれらの良きものを受け取る資格のない罪人をあわれみ祝福してくださる神様を見ることができます。

神様を知る以前は病から回復した時、良い医者良い病院にかかることができて幸運だったと考えそれで終わりでした。しかし、今はそれらすべての中に神様の癒しの御手を見ることができます。

神様を知らなかった時、苦しいことがあると「どうして自分だけがこんな目に会うのか」と嘆き、「神などいるものか」と不平、不満の山を築いて心腐らせていました。しかし、今は「この苦しみを通して、神様は私に何を教えようとしておられるのか」と考え、そこにわが子を訓練する神様の愛を見ることができるのです。

以上、八福の教えの六番目を学んできました。最後にもう一度確認したいと思います。イエス様を信じる者に与えられる恵みは「心がきよくなる」ことでした。私たちは自分の心の状態にどれ程関心があるでしょうか。自分の心がきよいかどうかに関心があるでしょうか。それは自分の生活の中で優先順位が高いことでしょうか。

私たちはもっと自分の心について関心を持つべきではないかと思います。憎しみで心が覆われる時、怒りに捕われる時、欲望の奴隷になる時、神様が私たちの心を清めることができるお方であることを思い起こし、「神様、私をあわれんでください。心をきよめてください」と祈り、願うこと。それを生涯続けてゆくこと。これが真に幸いな生き方であることを覚えたいのです。

そして、心のきよい者に与えられる祝福、神を見ると言うこの祝福をもっと体験し、味わいたいと思います。この世界のあらゆるもの、人生に起こるあらゆる出来事に神様を見ることが、どれ程幸いなことなのか。味わってゆきたく思います。そうした経験をお互いにもっと分かち合うことのできる教会となりたいと思うのです。今日の聖句です。

 

詩篇51:10「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」