2015年8月30日日曜日

哀歌3章22節~24節「一書説教 哀歌~なげきは主の前で~」


 人生の中で大きな出来事(嬉しいことでも、哀しいことでも)を経験した時、その喜びや哀しみを記念するのに、何をするでしょうか。入学、卒業、結婚、出産、あるいは葬儀。個人や家族のことであれば、今は写真や映像を撮ることが多いでしょうか。教会としては、どうでしょうか。私たちの場合、教育館を建てた時、新しくオルガンを購入した時、奉献式や奉献コンサートを行いました。国家としては、どうでしょうか。記念碑が建てられたり、記念日が定められたりします。

 それでは、大きな出来事を経験した時、詩を書くという方はいるでしょうか。喜びや哀しみの記念の詩。(書いているという方がいましたら、どうぞ読ませて下さい。)

聖書の時代、ユダヤ人にとって、今の私たちよりも詩はより一般的なものでした。大きな出来事があればもちろんのこと、日常的にも詩は作られました。預言者のメッセージも、多くは詩として語られました。

 

 断続的に取り組んできた一書説教、今日は二十五回目となります。旧約聖書第二十五の巻です。へブル語聖書では、その冒頭にある嘆きの表現、「ああ、何と」(エーカー)が書名となりますが、日本語では哀しみの詩、哀歌です。

預言書の多くは、どの時代、誰によって語られた言葉か記されていますが、哀歌には書かれていません。(そのため正確には、誰によって書かれたもの断言出来ませんが)しかし、ユダヤ人の伝承と、書かれた内容より、預言者エレミヤにより、バビロン捕囚による哀しみを歌ったものと考えられています。

本人の願いとは別に、バビロン捕囚が起こることを宣告し続けた悲劇の預言者。あのエレミヤが、バビロン捕囚を体験した時に、どのように感じ、その哀しみを吐露したのか。哀歌に詰められた思いを確認していきます。

毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 背景となったバビロン捕囚。これまで一書説教とともに聖書を読み進めてきた方はご存知のことと思いますが、どのような出来事なのか、確認いたします。歴史書に中心的な出来事が記されていました。(第二列王記25章、第二歴代誌36章に記されています。)

 

 イスラエル王国が南北に分裂。北王国はアッシリアに敗北し、国家としてのアイデンティティを失い、残る南王国も大国バビロンに屈した場面。エルサレムの地形は攻めるのに難しい自然の要害。ところが大軍に包囲され、食糧がなくなる中、ついには打ち破られ、敗北したといいます。その時の王は、子どもたちを虐殺され、その場面を最後の光景とすべく両目をえぐられ、足枷を付けられてバビロンへ連れて行かれる。神殿、王宮、家、主だった建物も破壊され、生き残った群衆も奴隷としてバビロンへ連れて行かれる。大惨事。悲劇中の悲劇。文字で読むとあっという間ですが、当時の南ユダの人々にとって、どれだけの出来事だったでしょうか。

 国が亡くなる。故郷が失われるという悲劇。戦争による敗北にも様々な敗北のあり方があると思いますが、この時は兵糧攻めでの敗北。その飢饉がどれ程のものであったのか。哀歌の中にその様子が少し記されていました。

 哀歌4章4節~5節、9節~10節

乳飲み子の舌は渇いて上あごにつき、幼子たちがパンを求めても、それを裂いて彼らにやる者もない。ごちそうを食べていた者は道ばたでしおれ、紅の衣で育てられた者は、堆肥をかき集めるようになった。

剣で殺される者は、飢え死にする者よりも、しあわせであった。彼らは、畑の実りがないので、やせ衰えて死んで行く。私の民の娘の破滅のとき、あわれみ深い女たちさえ、自分の手で自分の子どもを煮て、自分たちの食物とした。

 

 目を覆いたくなる状況。食べるものがなく、堆肥を集める。赤子の食べ物がないどころか、赤子を食べる母がいたという。「あわれみ深い女たちさえ」と言っていますので、複数起こった出来事。それをなした女性たちが、あわれみ深かったと知っていたということは、エレミヤにとって、顔見知りの出来事なのでしょう。これが、バビロン捕囚の最中、エレミヤが目撃した光景でした。

 

 詩篇の中にもバビロン捕囚をもとにつくられた歌がありますが、当時、バビロンに敗北することの悲惨さが記されていました。

 詩篇137篇8節~9節

バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。おまえの子どもたちを捕え、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。

 

 「バビロンの子どもたちを捕え、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。」と歌っていますが、これは「私たちへの仕打ちを、仕返しする人」のことでした。つまり、バビロン捕囚の際、意味もなく、子どもが岩に打ちつけられたことがあったということです。残虐さの故に、不条理に子どもが殺されながら、為す術もない。バビロン捕囚とは、このような出来事でした。極限状態になった人間の醜さが現れ、神殿も住居も破壊され、蹂躙されていく。どれ程の哀しみを背負うことになったでしょうか。

 

さて、その哀歌は全五章、五つの詩に分けられています。強い心情の吐露でありながら、詩としては技巧に技巧を凝らした歌。日本語では分からないのですが、第一から第四の詩まで、ヘブル語のいろは歌となっています。(完全ないろは歌ではなく、不規則な部分もあります。とはいえ、その不規則さも考えてのことだと思われます。)第五の詩はいろは歌ではないですが、同じように二十二の節でまとめられている。実に精巧な詩集。

 

 しかし、語られている内容は、第一から第五の歌まで一貫性があるというより、混乱した複雑な思いが並べられている印象となります。少しずつ、その内容を確認したいと思います。まずは第一の歌から。

 哀歌1章1節~3節

ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。国々の中で大いなる者であったのに、やもめのようになった。諸州のうちの女王は、苦役に服した。彼女は泣きながら夜を過ごし、涙は頬を伝っている。彼女の愛する者は、だれも慰めてくれない。その友もみな彼女を裏切り、彼女の敵となってしまった。ユダは悩みと多くの労役のうちに捕え移された。彼女は異邦の民の中に住み、いこうこともできない。苦しみのうちにあるときに、彼女に追い迫る者たちがみな、彼女に追いついた。

 

 バビロン捕囚によって、どのような状況になったのか。エルサレムを一人の女性に見立てて、その惨状が歌われます。「賑わっていた通りが静まり返り、世界の女王と見られていた都が、奴隷となり、未亡人のように座り込んで嘆いている。彼女は夜通し泣くも、恋人も友も(同盟し、頼りにしていた国)助けてくれず、むしろ敵になっている。ユダの住民は苦しみながら、奴隷として連れて行かれ、今は征服者のもとで、不安な日々を過ごしている。」

 そのような現状を招いたのは、自分たちの罪が原因であり、この惨状は主なる神様から下されたものだと告白されていきます。

 哀歌1章14節

私のそむきの罪のくびきは重く、主の御手で、私の首に結びつけられた。主は、私の力をくじき、私を、彼らの手にゆだね、もう立ち上がれないようにされた。

 

 現在の悲惨さを嘆きつつも、そこに罪と、神様の御業であることを認める視点を失わない。さすがはエレミヤというところでしょうか。

第二の歌は、第一の歌と同じ内容ですが、少し思想が発展します。バビロン捕囚を招く、大きな原因は、預言者たちが正しく警告しなかったことにあると見定めるのです。

 哀歌2章14節

あなたの預言者たちは、あなたのために、むなしい、ごまかしばかりを預言して、あなたの捕われ人を返すために、あなたの咎をあばこうともせず、あなたのために、むなしい、人を惑わすことばを預言した。

 

 そして今や、生活の指針となる律法も失われ(異邦人の奴隷となり従うことが出来ない状況になり)、指標となる預言者の幻もなくなったと。

 哀歌2章9節

その城門も地にめり込み、主はそのかんぬきを打ちこわし、打ち砕いた。その王も首長たちも異邦人の中にあり、もう律法はない。預言者にも、主からの幻がない。

 

 自身、預言者であるエレミヤの言葉として、重みがあります。バビロン捕囚という悲劇を招く罪とは、何か一つの行為ではない。神様を無視し続けたこと。神の言葉に立ち返らなかったこと。悔い改めなかったことが問題であり、それは明確に神の言葉を語らなかった預言者の責任が大きいとする視点です。

 

 続く第三の歌は、更に思想が深まります。苦しみを吐き出しつつ、その中で、神様の姿を見出し、信仰を告白していく。聖書全体の中でも極めて有名。珠玉の言葉が、ここで生み出されるのです。

 哀歌3章22節~24節

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。

 

 悲劇といって、これ以上ない悲劇を味わっている最中、よくぞこの告白へ導かれたと驚きます。

神様が愛であるなら、なぜこのようなことを許されるのか。南ユダがひどい罪を犯したとしても、それにしても、この現状はあまりに酷すぎる。神様が世界を支配しているとは思えない。支配しているというなら、愛であるとは思えない。神などいるのか。信じるに値するのか。と言うことも出来ました。

 しかし、そうではなかった。なぜ神はこのような悲劇を許されたのかではなく、なぜ神は私たちを滅ぼしつくさなかったのかと考えたのです。本来、このような悲劇は起こるべきではないと考えるのではなく、本来、滅び失せるべき者であったと認めるのです。稀代の預言者ならではの視点であり、私たちも身につけたい視点です。

 

 ところが、です。続く第四の歌は、思想が深まるかと言えばそうではなく、第二の歌と同様の内容に読めます。(最後の最後で、希望の言葉が出てきますが)つまり、現状を憂い、その原因は預言者(と祭司)たちにあると歌うのです。

 哀歌4章11節~13節

主は憤りを尽くして燃える怒りを注ぎ出し、シオンに火をつけられたので、火はその礎までも焼き尽くした。地の王たちも、世に住むすべての者も、仇や敵がエルサレムの門に、はいって来ようとは信じなかった。これはその預言者たちの罪、祭司たちの咎のためである。彼らがその町のただ中で、正しい人の血を流したからだ。

 

 第一の歌、第二の歌、第三の歌と、勢いが増し、思想が深まっていく中、どのように続くのかと第四の歌を耳にして、不思議に思います。肩すかしと言って良いでしょうか。前進というより後退。第三の歌の神賛美、告白の後に、もう一度、この第四の歌が来るとはどのような意味なのかと、首をひねります。

 それでは第五の歌はどうなのかと言えば、神様の姿を確認しつつも、信仰者の揺らぎのような姿が見え、そしてそこで閉じられるのです。

 哀歌5章19節~22節

しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか。主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか。

 

 神様がどのようなお方であるのか、エレミヤはよく知っていました。主のあわれみは尽きないことを告白し、ここでも真の支配者であることを認めます。しかし、それだけに、現状は理解に苦しむ。いつまで、忘れられているのか。「それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか。」としか言えない。これで哀歌が閉じられるのです。

 第三の歌で、これ以上ない頌栄、信仰を見せつつも、それで終わらない。再度、嘆きが聞こえ、混乱していく。「主のあわれみは尽きない」と確認しつつ、「きわみまで怒られるのですか。」と恐れを抱く。ここで途切れる。この解決のなさ、出口のなさ。これが哀歌でした。皆様は、この哀歌をどのように受け止めるでしょうか。

 

 私はここに、聖書の誠実さ、信仰者の真実な姿を見ます。聖書は信仰者の姿をともかく素晴らしいものとして記さなかった。なんでもかんでも、めでたしとする安物ではなかったのです。

 神様のあわれみを確認しつつも、そのあわれみはどこにあるのかと思う状況に落ち込んで、目をこらし、手でまさぐり、その暗闇の中で、なおも神様に向き合おうとする。手応えないまま、解決ないまま、「もしや、ほんとうに私たちを退けられるのですか。」と怯えつつ、それでも神様に祈り続けるところに、祝福された信仰者の姿を見ます。

 疑問なし、疑いなし、泰然自若として生きることが神様を信じることではなかった。疑問、疑い、恐れの中で、それでも神のあわれみ、恵みと格闘を続ける。現状の悲惨さを見、解決つかぬまま、それでも神様に語り続けていく。それが神様を信じるということでした。

 順風満帆の中で、神様のあわれみ深さ、神様の恵み深さを告白することは容易いでしょう。逆境の中。悲劇、苦しみ、哀しみの中で、神様のあわれみ深さ、神様の恵み深さを口にすることがいかに難しいか。喜びの仮面をつけて、神様のあわれみは尽きないと告白するのがキリスト者ではない。苦しみ、哀しみの時は、その苦しさ、なげき、恐れ、不安を口にして良い。しかし、それを主の前でするのです。神様に向き合うことをやめない。これがキリスト者の生き方でした。

 

 以上、第二十五の巻、哀歌を確認してきました。全五章の短い書。エレミヤの思いを考えながら、読み進めることが出来ますように。最後に二つのことを確認して、終わりにしたいと思います。

 一つは、第三の歌で生まれた、あの珠玉の言葉。あの信仰です。

哀歌3章22節~24節

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。

 

 神様の前で私たちはどのような存在なのか。神の目に尊く、とても価値のある存在。同時に、罪という視点で言えば、すぐにでも滅ぶべき存在でした。命があるのが当然、健康でいるのが当然、自分の夢が叶うのが当然として生きるのか。それとも、滅ぶべき私が、命が与えられ、やりたいことが出来、願っていることが実現するとしたら、それは神様のあわれみによると受け取るのか。大きな違いがありました。神様のあわれみを覚えながら生きるものでありたいと願います。

 もう一つは、混乱しながらも、それでも神様に向き合うエレミヤの姿です。悲劇、哀しみ、苦しみの中にいる時。神を信じても、どうにもならないとして、背を向けるのか。苦しみ、嘆き、恐れ、不安を抱きつつも、それでも神様に向き合うのか。

 私たちが目指す信仰者の姿は、恐れや不安、疑問や疑いのない信仰者ではありません。恐れや不安、疑問や疑いを抱きつつ、それでも神様に向き合う。その思いを神様に告白していく。それが、私たちの目指す信仰者の姿です。いかなる時も、神様に向き合う。そのような信仰生活を私たち一同で送りたいと思います。

2015年8月23日日曜日

ヨハネの福音書21章1節~14節「もう1度ご自分を現された主」


礼拝において、読み進めてきたヨハネの福音書。ついに最終21章に入ります。20章、21章は、イエス・キリスト復活の場面でした。最初マグダラのマリヤに現われたイエス様が、二度目には人々を恐れて家に身を潜めていた弟子たちの中に立ち、三度目は、その時不在であったトマスを含めた弟子たちのいる家に再度現われてくださったのです。

マリヤが一番に信じ、次にヨハネが信じ、更に弟子たちが信じ、最後に「自分の手をイエス様の手と脇腹に差し入れるまでは信じられない」と言っていた頑固なトマスも信じ、徐々に復活の主を信じる人々が起こされてゆきました。

そして、今日はそれから一週間ほど後のこと。都エルサレムから故郷ガリラヤに帰ってきた弟子たちの所に、イエス様が現われます。正確には四度目となりますが、ヨハネの福音書がこれを三度目(14節)と書いているのは、弟子たちがグループで集まっている所に現われた時だけを数えているからでしょう。

 

21:1、2「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。」

 

イエス様の12弟子の多くはガリラヤ地方の出身。そこに広がる美しい湖がガリラヤ湖で、ヨハネの福音書ではテベリヤの湖と呼ばれています。この時、そのほとりに立っていたのは、七人の弟子たち。リーダー格のペテロ、最後まで信じないと言い張ったトマス、祈りの人ナタナエル、それにゼベダイの子たち、つまりヤコブとこの福音書を書いたヨハネの合計七人でした。

一週間ほど前、都エルサレムの一室でイエス様に出会い、「あなたがたに平安あれ」と言われ、この世に遣わされることになった弟子たち。しかし、その時はまだ来ていなかったのでしょう。彼らは生活のため、湖に入って魚を取ろうと考えました。

そうなると、元漁師のペテロ、それにヨハネやヤコブ兄弟の出番です。「さあ、出発だ」と威勢の良い声を出したのはペテロでした。

 

21:3~7「シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。」

 

ガリラヤ湖での漁は通常夜中から明け方にかけて行われたそうです。しかし、その日は全くの空振り。一匹の魚も網にはかからない。全くの徒労に終わってしまいました。体はくたくた。心はガッカリ。疲れ果てた彼らが、船を岸に戻しかけたその時でした。イエス様が岸辺から声をかけたのです。「子どもたちよ。食べる物がありませんね」。弟子たちの疲れと空腹を思い遣る、親しく、優しい声が響きます。

すると、次は調子が一転。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます」と、魚のいる場所を的確に示す、力強いことばが発せられました。恐らく、この声を耳にした時、彼らの心に蘇る出来事があったのではないかと思います。

地上にある間、ここガリラヤ湖とその周りで、イエス様は何度も人々を教え、奇跡を行いました。弟子たちはいつも教えを聞き、奇跡を目撃し、イエス様とともに歩んだのです。この地は彼らにとってイエス様との思い出が詰まった場所でした。中でも、この時彼らが思い起こしたのは、同じ湖で漁を行い、一匹の魚も取れずに落胆した時、イエス様の指示に従って深みに漕ぎ出し、網を下すと大量になったと言う出来事だったでしょう。

ですから、最初はイエス様だとは分からなかった弟子たちも、この力強いことば聞いて、「もしかすると、あれはイエス様」と思い、指示に従ったと考えられます。すると、結果は網を引き揚げられない程の大漁。彼らは驚き、喜びます。

この時のヨハネとペテロ二人組の反応が対照的でした。イエス様に愛された弟子ヨハネは、静かに「主です」と年長のペテロに告げ、対するペテロは喜びの余り、裸に上着をまとい、湖に飛び込んだと言うのです。泳いだのか、それとも波をかき分けて歩いたのか。いずれにしても行動型のペテロ、内省型のヨハネ。動のペテロに静のヨハネ。良いコンビネーションでした。

他の弟子たちは、網を引いて小舟でついて来たとあるのも、印象的です。内省型、行動型、管理型に実務型。教会には様々なタイプの人がいて良いし、イエス様は様々タイプの人を集めて教会をつくるお方と確認したいところです。

しかし、忘れてならないのは、彼らが大漁の収穫を得たのは、イエス様の指示、みこころに従ったからだと言う点です。イエス様は全知の神様。舟の右側に大量の魚がいることをご存知の上で、「右に網を」と指示されました。けれども、弟子たちがそのことばを信じて実際に網を下し、働いたからこそ、収穫が与えられたのです。

イエス・キリストの祝福を信じている、みことばを信じていると口では言いながら、実際にはみこころに従おうとしないことのある私たち。イエス様を信じるとは、イエス様の祝福を心から期待し、自分ができることを考え、全力を尽くして行動すること。そう教えられたいところです。

こうして、弟子たちが岸辺にたどり着くと、そこには思いもかけないお祝いの席が待っていました。何と、イエス様が自ら朝の食事を用意しておられたのです。

 

21:9~14「こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。」

 

冷え切った体を暖める炭火。疲れ果てた体を癒す魚とパン。そして、「さあ来て、朝の食事をしなさい」と優しく招くと、ご自分の手で、パンも魚も弟子たちに渡してくださるイエス様。親が子どもに心を配るように、人が大切な友を労わるように、弟子たちに仕えるイエス様の姿です。

 先回の場面でもそうでしたが、弟子たちは最初岸辺に立つ人がイエス様だとは気がつきませんでした。恐らく、イエス様の復活の体が、地上を歩まれた時の体と、性質、力、栄光において、違っていたからだろうと考えられます。何も邪魔する物がないかのように、自由に空間を移動する。いつ、どこに現われるのかも自由自在。そんなイエス様の様子に、復活の体の特徴の一端が伺えます。

 そして、その様な復活の主に出会った彼らは、畏れたことでしょう。復活の体の栄光を見て、地上を歩まれていた時の体とは違うものを感じ、イエス様との間に少し距離を感じていたかもしれません。

 しかし、イエス様との思い出が詰まったガリラヤ湖の岸辺で、共に朝の食事をとるうちに、彼らはイエス様と自分たちの関係が、以前と全く変わらない親しいものであると感じることができたのではないでしょうか。

「弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった」ということばは、彼らが安心して復活の主と共に食事をしたことを示しているように思えます。復活されたからと言って、イエス様が全く偉ぶることなく、むしろ彼らの疲れた体を気遣い、喜んで給仕役をつとめ、仕えられたからこそ、彼らの心の緊張が解けたのです。

 このヨハネの福音書21章の前半は、一幅の絵画のように美しい場面と評されてきました。私には絵心がありませんが、書けるものならなら書いてみたい気がします。それは、風景の美しさではなく、交わりの麗しさです。

ある人がこの箇所について、「イエス様は、ご自分を信じる者と親しく交わることを愛される」と語っています。私たちはイエス様と親しく交わることが、信仰生活の上でとても大切だと考えています。しかし、それを愛しているでしょうか。イエス様との交わりを大切にする者から愛する者へ。私たちが考える以上に、私たちとの親しい交わりを望み、愛するのが私たちの主、イエス様であることを覚えたい所です。

 さて、こうして読み終えた今日の箇所。最後に二つのことを確認したいと思います。

 ひとつ目は、復活の主はいつでも、どこでも、私たちとともにいて、私たちの必要を知っていてくださることです。17節に「イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である」とありますが、何故イエス様は三度も弟子たちにご自分を現されたのでしょうか。

 前の二回、イエス様が姿を現されたのは安息日、つまり礼拝の日でした。しかし、今日の箇所では、普通の日です。また、前の二回、イエス様が姿を現されたのは都エルサレムでしたが、今回は弟子たちの故郷、日常生活の場、ガリラヤ湖の岸辺でした。

復活の主は、礼拝の日だけでなく普通の日も、都エルサレムの様な特別な場所だけでなく、私たちの生活の現場、職場、家庭にもともにいてくださるお方。私たちの霊的必要だけでなく、私たちの体の必要についても、そのすべてを知っておられ、心を配ってくださるお方であることを教えられたいのです。

「イエス・キリストは、私たちの罪を赦してくださった。永遠のいのちを与えてくださった。しかし、イエス様は私たちの食べ物のこと、経済のこと、住まいのこと、その他日常生活の小さな必要の数々になど、関心があるのだろうか。」「日曜日教会の礼拝に来ると、イエス・キリストの臨在を覚える。しかし、職場や家庭にも、イエス様はともにおられるのだろうか。」皆様はその様に思われたことはないでしょうか。

いつでも、どこでも、何をしていても、イエス様は私たちともにおられる。私たちのことを心にかけておられ、片時も忘れることはない。日々、復活の主イエス様とともに歩む者でありたいと思います。

二つ目は、天の御国での私たちの生活を思うと言うことです。今日の箇所は、聖書の他の箇所と照らし合わせてみると、天の御国での生活を表わす象徴とも考えられます。

 

マタイ13:47、48「また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。」

 

弟子たちがイエス様のもとに運んで来た網は153匹の魚で一杯であったと言われています。その頃、ユダヤでは魚の種類は全部で153種類とされていたそうです。つまり、網一杯の魚は、イエス様がもう一度この世界に来られる時、世界中の国から集められる信仰者、兄弟姉妹の象徴とも考えられます。

さらに、ルカの福音書にはこの様なイエス様のことばもあります。天の御国では、イエス様が集められた民のため、食卓で仕える給仕となって、祝福してくださると言うのです。

 

ルカ12:37「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。」

 

まさに、ヨハネの福音書の今日の箇所に描かれたイエス様と弟子たちの交わりは、将来来るべき天の御国での生活を示しています。イエス様に直接仕えて頂ける、イエス様と私たちの愛の関係を示しているのです。地上での労苦をすべて終える時、私たちは優しく招いてくださるイエス様に顔と顔を合わせて、お会いすることができる。

地上にある間も、その後も、イエス様のもとに招かれている者であることを、私たちともに喜びたいと思います。今日の聖句です。

 

Ⅰペテロ1:8「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」

2015年8月16日日曜日

ルカの福音書22章24節~30節「与えられたものとして」


私たちは神様から実に多くのものを頂いています。目に見えるものから、見えないものまで。命も、命を支えるのに必要なものも。情熱、能力、知恵や力、財産や地位、経験や人間関係。偶然の積み重ねで今の世界があると考えていた時には思いもしないことですが、世界を創り支配されている神様を知ると、私たちは神様が下さる良いものに囲まれて生きていることが分かります。

 それでは、なぜ神様は私たちに多くのものを与えて下さっているのでしょうか。皆様は神様が下さったものを、どのように用いて生きているでしょうか。過ぎし一週間、自分の知恵、力、財産、地位、経験、人間関係を、何のために使ってきたでしょうか。

 

 神様から離れた人間。罪の中にある者の特徴の一つは、神様が下さった良いものを、自分のために使うことです。もともとは、他の人に仕えるために与えられた良いものを、他の人を支配し、搾取するために用いる。私が高められたい。私が注目されたい。私の願う通りにしたい。私が支配したい。そのような自己中心的な願いに沿って、神様が下さったものを用いていく。これが罪人の生き方でした。

 

 最初に、人間が神様から離れる決断をする時。蛇の誘惑の言葉が実に印象的でした。

創世記3章4節~5節

「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」」

 

 何をしても良いと言われていた園で、一つだけ禁じられたのは、善悪の知識の木の実を食べること。この禁じられたことを、アダムとエバが行うことで、人間も世界も悲惨な状況に陥ります。

 この時の蛇の誘惑の言葉は、それを食べると「神のようになる」というものでした。実際には、「神のようになる」とは正反対。非常に良い存在として創られた人間が、ひどい状態になるわけです。しかし、ひどい状態になった人間は、自分自身を神とするものとなった。自己中心の存在、自己栄光化の怪物になる。

ひどい状態になる。しかし、その思いは、自分を神のようだと思う。蛇の誘惑の言葉は絶妙でした。

 

 それに対して、イエス様の生き方は、どのようなものだったでしょうか。主イエスの力と言えば、全知全能。正真正銘、何でも出来る神の力。その力を、イエス様はどのように用いたのか。自分のためには用いないで、仕えるために用いました。その具体的な姿は、福音書の中でいくつも確認出来ますが、パウロが次のようにまとめていました。

 

 ローマ15章1節~3節

「自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。」

 

 私たちにあるべき生き方を示して下さるイエス様は(示すだけでなく、実際にそのように生きることが出来るようにと、私たちを変えて下さるのですが)、その生涯を通して、自分の力をどのように使えば良いのか、教えて下さったわけです。

 

 罪人は、持てるものを自分のために用いていく。主イエスは、仕えるために用いていく。このコントラスト、この対照が色濃く出ているのが今日の箇所となります。

 私たちは、どのように生きてきたのか。神様は私たちにどのようなことを願っておられるのか。新たな一週間、どのように生きていくと決意するのか。考えながら、読み進めたいと思います。

 

 ルカ22章24節~27節

また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。

 

 AD三十年、四月六日、木曜日と考えられています。キリストが十字架につく前日の夜。この時、イエス様が心待ちにしていたのが、弟子たちとともに過越の食事をすることでした(ルカ22章15節)。出エジプトの過越の小羊と、翌日に十字架にかかるご自身を重ね合わせて、最初の聖餐式を制定する。所謂、最後の晩餐の場面です。

 この時、イエス様は精一杯、弟子たちに愛を示します(ヨハネ13章1節)。弟子たちの足を洗い、食事を給仕する。人となりたもう神が、十字架直前の緊迫した中で、弟子たちに徹底的に仕えていました。

この中には、イエスを売り渡すイスカリオテのユダもいましたし、関係を否定するペテロもいました。弟子たちは皆、イエス様の十字架を前に、散り散りになる者たちでした。このような者たちに仕える救い主。裏切ることを知りながら、それでも弟子たちに仕えることを喜ばれる救い主。相手がそれに相応しいから仕えるのではない。ただ、愛に基づいて仕えるという姿。これが、私たちの救い主です。

 このイエス様を前にして、弟子たちは何を話していたでしょうか。

 

 ルカ22章24節

また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。

 

 最後の晩餐の席上。明日、十字架に上られる主イエスを正面にして。これまではともかく、この時こそは厳粛になるべき時。しかし、ここで弟子たちの口をついて出たのが、誰が偉いのかという論争でした。実に残念と言って良いでしょうか。三年もの間、イエス様と寝食をともにし、教えられ、愛されてきた者たち。しかもこの時、イエス様に足を洗ってもらい、食事を給仕して頂いた者たち。それでも、弟子たちの頭にあったのは、誰が一番偉いのかということでした。

 この時の弟子たちの根底にある思いは、自分の力は、人を支配するためにある。自分の能力は、人を仕えさせるために用いるもの。自分の賜物は、人の上に立つために使うべきものというもの。罪人の思いでした。

 いかに人を仕えさせるか考える者たちと、いかに人に仕えるかとする救い主。水と油、氷と炭、白と黒、天と地、正と邪。強烈なコントラストです。

 

 この弟子たちに今一度、神様が下さるものを、どのように用いるべきか教えて下さるイエス様の言葉が続きます。

 ルカ22章25節~27節

すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。

 

 これまで繰り返し教えてきたこと。何度聞いても分からない弟子たち。それでも、丁寧に教えるイエス様の優しさが印象的です。

 「いいですか。人を思い通りに動かすこと。人に仕えられること。それが、地位が高いこと。偉いことだと思っているのでしょう。しかし、それは神を知らない異邦人の考え方です。この世界の作り主を知らず、どのように生きたら良いのか知らない異邦人は、支配し、権力をふるうことこそ、地位があり偉いことだと考えています。しかし、あなたがたはそれではいけません。むしろ地位があり、偉いというのは、それだけ多く、仕える者となるということ。神に与えられしものを、他の人のために用いていくこと。今、わたしがあなたがたにした通りです。神無しの考え方、異邦人の考え方に染まるのではなく、神の国の考え方を忘れないように。」

 このような主イエスの言葉を、皆様はどのように受け止めるでしょうか。現実世界では役に立たない。寝言だ。世迷言だと受け止めるでしょうか。それとも、自分の目指す生き方として受けとめるでしょうか。

この世界の考え方とは正反対。逆説的。しかし、これがキリスト教でした。

 

 このように弟子たちを諭しつつ、さらにイエス様の言葉は優しさを増します。

 ルカ22章28節~30節

けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

 

誰が一番偉いのかと話していた弟子たちに、「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまな試練の時にも、わたしについて来てくれた。」とイエス様の感謝の言葉が響くのです。「え?」と思います。「相手を間違えていませんか?」と不思議に思います。

目の前にいるのは、三年一緒に過ごしながら、この十字架直前の場面で誰が一番偉いのかと話していた者たち。この直後に、散り散りになる者たち。それでもイエス様は、感謝を伝えたかった。「よくぞ、ついて来てくれた。」と。

いやいや、足手まといだったのではないでしょうか。ついて行ったというより、ぶら下がっていただけではなかったでしょうか。むしろ、イエス様の働きを邪魔し、失望させて来たのではないでしょうか。と思うのですが、イエス様は弟子たちを大いに励まそうとされる。「よくぞ、ついて来てくれた」と。

今日でも、イエス様が同じように、私たちに声をかけるとしたら、何と言われるのか。想像します。決して立派な信仰生活ではなかった。罪にまみれ、傷だらけの信仰生活だった。それでも、「よくぞ、ついて来てくれた。」と主イエスに言われるとしたら、それは大きな喜びです。

さらにわたしの国ではともに食事をし、王座に着くと、天国での報酬まで約束される。

全く不甲斐ない弟子たち。それでも、あるべき姿を教え、感謝を示し、大いに励まそうとされる。このイエス様の姿、その優しさが胸に迫ります。

 

 神様から頂いたものを、仕えるために用いることが出来ない弟子たちを、それでも励ます姿に、一つの言葉が思い起こされます。

 マタイ10章42節

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。

 

 ご自身、自分のもてるものは仕えるために用い、その命までもささげられるのに、弟子たちには水一杯をささげることでも激賞する言葉。「よくぞ」と喜んで下さる。水一杯でも、他の人に仕えるために用いるならば、報いに漏れることなしと言われる。恐れ多いというか、恐縮するというか。

 しかし、これは私たちが、持てるものを他の人のために使う時、イエス様が大いに喜ばれるということでしょう。神様が、私たちの生き方に注目し、期待しておられるということです。

 

 更に言うと、私たちが、仕える者となるように、イエス様が願っておられるというのは、この後のイエス様の姿でより一層明確になります。この翌日、私たちを贖うために、十字架にかかり死なれます。信じる者が、罪の支配から抜け出し、神様から与えられたものを、喜んで他の人に仕えるために、イエス様は命を注ぎだすのです。キリストが命をかけて、仕える者となるように召したのが、私たちです。

私たちは、この救い主の思いをどれだけ意識して生きているでしょうか。神様の眼差しをどれだけ覚えているでしょうか。

 

 以上、仕えられたいと願う弟子たちと、仕えることを喜びとし、また仕えるようにと教え励ますイエス様の姿を見てきました。今日、この聖書の箇所を通して、神様が私たちに願われていることは、どのようなことでしょうか。私たちは、これからの一週間、どのように生きていくでしょうか。

 

 罪の奴隷にいる時は、自分中心にしか生きることが出来なかった私たちが、キリストの十字架によって贖われました。これからは、どのように生きていくのか。ペテロの言葉を確認して終わりにしたいと思います。今日の聖句です。

 ペテロの手紙第一2章16節

「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」

 

 もともと罪の奴隷であった私たち。自分中心にしか生きることが出来なかった私たち。それが今や、自由人となった。自由に神様に従うことが出来る。神様に与えられたものを、自由に、他の人に仕えるために用いることが出来る。罪の奴隷から、自由人とされた私たち。

 ところが、再度、奴隷であれと言われます。神の奴隷であれ!と。罪の奴隷から自由人となった私たちは、その自由を悪用、乱用するのではなく、神の奴隷として生きるために用いるというのです。奴隷から自由人へ。自由人から奴隷へ。一回転していますが、もとに戻るのではない。罪の奴隷から、神の奴隷へとなる。

 ルターが、その名著「キリスト者の自由」で、キリスト教的人間を次のように表現していました。

「キリスト教的人間はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、誰にも服しない。(しかし、)キリスト教的人間はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する。」

 

 神様は私たちに多くのものを与えて下さっています。それは、私たちが、その与えられたものをもって、互いに仕え合うためでした。私たちが、与えられたものを仕えるために用いるとき、主イエスはどれだけ喜ばれるのか。

 与えられたものを自由に使うことが許された私たち。その自由を、神の奴隷として用いる決意を得て、この一週間を送っていきたいと思います。