2016年1月10日日曜日

ウェルカム礼拝 ピリピ人への手紙3章13節~15節「真の大人とは~自由と責任~」


 大人であること。今回のテーマは非常に難しいものでした。自分自身が大人と見られ、自覚もしているつもりですが、大人であることについて話すとなると迷ってしまう、悩んでしまう。そんな不思議な経験をしました。

 考えてみると、一言で大人と言っても年齢の幅が広いことがあります。大人をテーマとした川柳にこんなものがありました。「二十歳すぎ 年取るスピード 2倍速」。昔のことばで言えば「光陰矢のごとし」でしょうか。

 皆さんも、大人になると子どもの頃より一日や一年が短く感じることがあると思います。それが2倍なのか、矢の様に速いのかはともかくとして、子どもの頃は一年が長く夏休みやお正月を心待ちにする位でしたのに、大人になってみるとあっという間の10年20年と感じられます。

この間ある青年の話を聞いていて大いに共感するところがありました。そこで「よ~くわかる。僕もついこの間まで大学生だった気持ちがするんだよ。その頃読んだ本、感動した映画、好きだった人、尊敬していた人。どれも強烈に覚えているからね」と言った所、彼曰く「でも山崎先生のギャグって、典型的なおやじギャグですよね」と言われてしまったのです。こちらは仲間の気持になっていたのに、「そうじゃないぞ~」と突き放された感じがして、ちょっと寂しい思いがしました。

青年、壮年、老年。大人にはこの三世代が含まれますが、それを一括りにして大人とは何かを考える。そこで何か手がかりはないかと図書館に行き、大人と言うことばが題名に入った本を出来る限り読んでみました。大人の常識、大人の考え方、大人の品格、大人の流儀、大人のわきまえ、出来る大人の交際術、大人の見識等々。読んでみて分かったのは大人についての考え方は人それぞれ十人十色。これをまとめるのは不可能だと言うことです。

しかし、それらの本に共通することがありました。それは一言で言えば成熟です。多くの場合子どもが本能的に、自然に生きているのに対し、大人は社会の常識をわきまえたり、自分なりに行動のルール、考え方、人生観を持ち、それを意識しながら生きていると言えるのではないでしょうか。そういう意味で成熟した人、あるいは成熟を目指し努力している人。そういう人が一般的に大人と考えられているように思います。

実は今読みました聖書に「成人である者はみな、このような考え方をしましょう」とありますが、成人、大人と訳されたことばの意味は成熟です。つまり、聖書も大人を成熟した人と定義しているわけです。それでは、真の大人、聖書が教える大人、成熟とは何でしょうか。今日はこれを自由と責任と言う視点から考えてみたいと思います。

リクルートと言う会社が20代の青年に行ったアンケートがあります。「あなたはどんな時大人になったと感じましたか」。この質問に対する答えの第一位が「お酒が飲めるようになった」。その後に「自分で稼いだお金で欲しい物を大人買いした。」「選挙権が与えられた」「車の運転免許を取った」「一人暮らしを始めた」「親孝行を考えるようになった」等の答えが続きます。

家庭や学校で制約の中を歩んできた子供時代に比べると、大人は経済的自由、行動の自由、恋愛の自由等、生活の自由度が広がります。他方、大人にも弱点があります。青年は情欲に悩み、壮年は物欲に捕われ、老年は名誉欲に縛られると言われる様に、様々な欲望が私たちを正しい道から離れさせ、足を掬われてしまうことがあります。

聖書は私たちは自分が思う程自由ではないと教えていました。

 

ローマ7:18、19「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」

 

情欲に溺れる快楽人間、お金を稼ぐことが生きがいの物欲人間、自分のプライドに拘って人と協力できず、人が離れて行くプライド人間、怒りの感情に縛られて人を責めてしまう短気人間。皆さんは、この様な欲望や感情から自由ではない自分に気がついているでしょうか。この様な弱さが自分のうちにあることを知っているでしょうか。

今日の聖書の箇所でパウロは「私はすでに捕えたなどと考えてはいません」と言っています。自分はまだ完全な自由を捕えてはいない、本当の自由を持ってはいない。つまり、自分には欲望や感情に支配される弱さがあることをよく自覚しているわけです。

聖書が言う大人とは完全な人ではありません。自分の力では克服しがたい弱さを持っていることを認めている人のことです。自分の弱点、失敗、間違った行いを認め、自分の考え方や行動を改めることに取り組む人を指しています。「私はこの一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前に向かって進み」ということばは、この様な意味で真の大人としての生き方を私たちに教えてくれるものと考えられます。

ところで、日本では成人式と言うと二十歳と言うのがしきたりですが、世界的に見ると十八歳を成人とする国が多いようです。しかし、ユダヤでは昔から今に至るまで十三歳が成人式で、家族や親しい人が集まりバアル・ミツバ―という盛大なお祝いをする風習があるのだそうです。

そして、成人式を終えた者はユダヤ教の教えを記したトーラー、律法集を覚えておき、それを礼拝の場で朗読することができ、さらに婚約をすることも許されます。つまり、大人とは、所属する社会において人々のために責任ある仕事を求められる者でもあるわけです。

日本でも昔はある一定の農作業ができる十五歳になると村の青年団に入り、大人の仲間入りとされました。つまり、大人イコール社会人と言う考え方です。

 しかし、最近責任ある立場に立つことを嫌がる若者が増えてきたとも言われます。大人をテーマにした川柳の中にこんなものがあります。「二十歳すぎ 責任・税金 大人イヤ」。

 以前「モラトリアム人間の時代」と言う本がよく読まれました。モラトリアムと言うのは元々借金の返済を先延ばしすることです。そこから作られたモラトリアム人間と言うことばは負うべき責任を避け、先延ばしする人を指します。豊かな境遇に育ち社会や組織に属そうとしない大人、特に青年の特徴を表わすことばとして有名になりました。

 ところで責任とは何でしょうか。与えられた仕事を終わらせることでしょうか。聖書はもっと広い意味で私たちの責任を教えています。神様は私たちに能力、財産、人間関係、時間、行動力等を与えてくださった。それをどう管理し、どの様に用いるのか、私たちは神様と人々に対し責任を負っていると言う考え方です。

 皆さんは、神様に背いた人類の先祖アダムとエバが最初にしたことを知っているでしょうか。禁断の木の実を取って食べた時、神様に理由を聞かれたアダムは「あなたが与えてくれたあの女が、私に勧めたからです」と答え、エバにまた暗に神様にも責任転嫁しました。エバもまた蛇に騙されたと言って、責任転嫁したんですね。責任は昔から人間が避けようとしてきた問題だったのです。

 我が家の子どもたちが小さかった時、時々兄弟げんかが起こりました。何事にもマイペースな長男と完全主義的な長女の喧嘩です。何故仲良くできないのかと尋ねると、長男は「妹がすぐに怒鳴るから」と言い、長女に「どうして怒鳴るのか」と質問すると、「お兄ちゃんがやるべきことをやらないから、だらしないから」と答えます。自分がこういう行動をとるのは相手のせいだと言い合うだけではダメだと私が怒ると、長女が「パパだってママのせいにしてるじゃない」と言うので、こちらも二の句が継げないと言うのが良くあるパターンでした。

 自分が表わす感情、態度、自分の能力を誠実に使うのか使わないのか。それは自分の問題であって他の誰にも社会にも責任転嫁できないと聖書は教えているのです。そして、聖書は神様から与えられた自由を愛をもって人に仕えるために使いなさいと勧めています。

 

 ガラテヤ5:13「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」

 

 肉と言うのは肉体のことではなく、人間が生れながらにして持っている自己中心の性質です。つまり、私たちは自分の態度や能力を肉の働く機会、つまり相手を責めたり、傷つけるために用いてしまう弱点があります。しかし、その弱点をしっかりと受けとめつつ、それらを愛をもって相手に仕えるため用いるよう努めよと言う勧めです。

 勿論、「ローマは一日してならず」ではありませんが、この様な大人の生き方、成熟した生き方は簡単に身に着くつくものではありません。前進する時もあれば後退する時もあるでしょう。しかし、自己中心の考え方や行動を改め、焦らずたゆまず愛をもって人に仕える生き方を追い求める。それが聖書の教える大人でした。「私は、ただこの一事に励んでいます。すなわち、うしろのもの、自己中心の生き方を忘れ、ひたむきに前のもの、愛をもって人に仕える生き方に向かって進む」と言うことばはここにも響いているように思われます。

 この間新聞を読んでいましたら、アメリカのある学校では子どもたちに対しお金について教える授業を行っていると言う記事が載っていました。お金の稼ぎ方ではなく、お金の意味、お金の用い方を教えるクラスです。それによると、貯金箱を四つに区切ることでお金には四つの使い方があることを分かりやすく伝えているそうです。

 ひとつは生活に必要なものを買うお金、二つ目は今は買えないけれど自分が本当に欲しい物を買うために貯めるお金、三つ目は自分の将来の成長のために投資するお金、四つ目は社会で困っている人を助けるため、あるいは世界で苦しむ人を助ける活動をしている人々に寄付するお金です。

 私はこれを読んでいて大人の考え方生き方だと感じ、お金だけでなく時間や能力についても当てはまることではないかと思いました。子どもは今を生きています。しかし、大人は今を生きるだけでなく、将来を見据え目標を立ててそこに近づいてゆくと言う努力が求められます。子どもは主に自分のために生きています。しかし、大人は広く社会や世界に目を向け、少しでも自分が生かされている社会や世界を良くするために考え、行動する責任があるのではないでしょうか。

最後にお勧めしたいのは、聖書の神様を信頼することが大人として生きる上で非常に助けになるということです。聖書の神様はこの世界の造り主です。神様が私たちのことをどう思っているのか。私たちに対するメッセージがこの言葉に込められています。

 

イザヤ43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

 

神様から見て私たち一人一人の存在は非常に大切でかけがえのないもの。私たちの人生はまるごと神様の愛によって祝福され、守られているというメッセージです。

皆さんは、明日の記憶と言う映画をご存知でしょうか。渡辺謙さんと樋口可南子さんが夫婦を演じていて、ちょっと悲しくなる場面があります。主人公はある会社の部長で同期では出世頭、自信満々で仕事をするサラリーマンです。この主人公が打ち合わせの日時や場所を忘れたり、間違えたりするので病院で見てもらった所、若年性アルツハイマーと診断されます。やがて自分の仕事力が衰えたことを感じた主人公は自ら退職届を出しますが、会社はそれを受けとらず残るよう勧め、いわゆる窓際族になりました。

しかし、かっての自分を思うとその部署にいることが屈辱的で我慢できない主人公が奥さんに「俺は会社を辞める」と伝えると、奥さんは「絶対にやめないで。娘の結婚式までは辞めないでほしい。父親が肩書なしじゃ、あんまりあの子が可哀想よ」と訴える場面です。それを聞いた主人公は最初怒りますが、やがて諦め受入れ、忍耐して働き続けることを決断するのです。

この世では、能力、学歴、肩書、収入等で人は自分の、そして他の人の価値を判断します。しばしば愛情もこれらのものに左右されます。この映画の主人公も奥さんも娘のためにそれを受け入れました。しかし、最後主人公が妻に関する記憶を失った時、それでも妻は夫を大切な存在として愛そうとするのです。神様も同じです。この世界を創造した神様が私たちの存在そのものを大切に思い、その愛によって私たちの人生を丸ごと守ってくださる。こんなに安心できることがあるでしょうか。

「成人である者、大人である者は皆この様な考え方、生き方をしましょう」と勧めるパウロも、神様に愛され守られていることを信じていたからこそ、自己中心の生き方を改め、ひたすら大人としての生き方を追い求めることができたのです。

聖書には「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、その目標を目指して一心に走っている」と言うパウロのことばが記されています。この世の旅路を終えた時、そこには私たちを待っていてくださり、歓迎してくださり、褒めてくださる神様がいる。その様な神様の存在がどれ程私たちの心を励ましてくれることでしょうか。

最後に神様を信頼して歩む者の祈りとして有名なニーバーと言う人の祈りを、紹介したいと思います。「神よ。変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を私たちに与えてください。変えることのできないものについては、それを受け入れる冷静さを与えてください。そして、変えることのできるものと変えることのできないものとを、識別する知恵を与えてください。」

2016年1月3日日曜日

ヨハネの福音書9章1節~9節、35節~38節「礼拝~新しい人生の歩み~」


新年明けましておめでとうございます。2016年の聖日礼拝の歩みが始まりました。この一年、教会の歩み、礼拝の歩み、私たち一人一人の歩みが祝福されたものとなりますようお祈りしています。

 例年通りですが、年始の礼拝説教は、信仰の基本的事柄を扱います。一年のうち一回は、礼拝説教で信仰の基本的な事柄を確認したいと思いますが、それならば、年の初め、気持ちを新たにした時が良いと考えてのことです。今日は「礼拝」について。ある人が、主イエスに出会い変えられていく場面を見ます。キリストに出会う、主イエスを信じるとは、どのような意味があるのか。神の民、クリスチャンとはどのような存在なのか。私たちはこの一年、何を大切に生きていくのか、皆様とともに考えたいと思います。(説教のテーマは礼拝ですが、礼拝そのものを扱うのではなく、礼拝者となることを確認します。)

 

 開くのはヨハネの福音書九章。ヨハネの福音書は、主イエスと特定の一人のやりとりに焦点を当てて記された記事が多くあります。ニコデモ(三章)、サマリヤの女(四章)、ベテスダの男(五章)。そして、この九章では生まれつき盲目の男とイエス様の出会いの記事となります。多くの人に愛された記事、印象深い箇所。

 

 ヨハネ9章1節

「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。」

 

 安息日のことです(九章十四節)。おそらくは、皆が祈りや礼拝のため神殿に向かう道に、盲人は座ります。神殿に向かう、あるいは神殿から帰ってくる人たちに物乞いをするためでした。当時の社会で、生まれつきの盲人が出来ることと言えば、非常に限定されていました。生きるためには、物乞いするしかない人生。

 この人は生まれつきの盲人ですから光を見たことがありません。暗やみの中で生きてきた人。しかしこの日、生まれて初めて光を知ることになる。それも、陽の光がその目に差し込むだけでなく、世の光である方を心に迎え入れることになる。これ以上ない出会いの場面。

 ここで主イエスは、生まれつきの盲人を見ました。おそらく、立ち止まったのだと思います。周りにいる弟子たちも、イエス様の視線を意識し、質問が出てくるのです。

 

 ヨハネ9章2節

「弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』」

 

 目は見えなくても、耳は聞こえる男を前に、失礼な質問、ひどい言葉。しかし、おそらくはこの男にとっては、これまでの人生でよく耳にした言葉だったと思います。そして、この会話は、次のような展開が予想されました。

 「律法には、『わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代四代にまで及ぼす。』とあるのだから、やはり両親、その祖先がひどい罪人であったのでしょう。」と。しかしまた、「預言者は、『罪を犯した者はその者が死に、子は父の咎については負い目がない。』とも教えているから、やはりこの人本人に罪の問題があるのだろう。」

おそらくこの人は、「生まれつきの盲目という不幸は、両親も悪い、本人も悪い。」という絶望的な解釈を聞き続けてきたのです。私たちの周りにも、このような考え方があります。親の因果が子に報う。先祖供養が足りないから、このような不幸な目に会うのだという声。「祟り」と言ったり「呪い」と言ったり。親に原因がある、本人に原因があるとして、だからどうするということも出来ないのに、勝手な解釈をつけたがる。

 このような人々の声、考え方に囲まれて生きてきたこの男に、この日は初めて聞く言葉が飛び込んできます。驚きの言葉。

 

 ヨハネ9章3節

「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』」

 

 自分について語られる言葉を聞いていたこの人にとって、このイエス様の言葉がどのように響いたのか、想像出来るでしょうか。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない。神のわざがこの人に現れるためです。」

 このイエス様の言葉、私の存在にも関係のある言葉です。私の父は生まれて四十日目に小児マヒに罹り、右足が細く、短くなりました。父の母、私の祖母は、そのような子をもつことで、かなり苦労したそうです。田舎町の中で、それこそ、「親の因果が子に報い」と言われながら生きる。私の父が幼い時、一緒に川に飛び込んで死のうかと思ったこともあったそうです。その祖母が、ある伝道集会で聞いたのが、この聖書の言葉でした。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない。神のわざがこの人に現れるためです。」と。祖母は、その説教が終わった後に、説教者にその言葉は本当のことなのかとにじり寄ったそうです。それまで聞いたことのない言葉に、衝撃を受け、信じて良いのかとにじり寄った。この主イエスの言葉がなければ、もしかしたら、祖母は私の父とともに死を選んだかもしれない。そうなると、私も存在しなかったことになります。

 

想像するに、この男にとって、このイエス様の言葉は、これ以上ない言葉として響いたでしょう。周りにいる人たちは過去に目を向ける。それでどうにかなるというわけでもないのに、過去に目を向ける。ところが、イエス様は今と、未来に目を向けている。罪の結果ではない。神様の素晴らしさが現わされるため。人間の視点と、主イエスの視点のコントラストです。

 

 さて、「神のわざが現わされる」と言われた主イエスは、ご自身を世の光と宣言し、この男の目を開くようにします。

 ヨハネ9章6節~7節

「イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」

 

 少し不思議な場面。イエス様は、言葉一つで、この男の目を開かせることが出来る方。何故、このような面倒なことをされたのでしょうか。イエス様の唾には、何か効力があるのか。手で触ることで、何かしらの心のケアをされたのか。あるいは、この男がイエス様の言葉を信じて、シロアムに行くかどうか試したということか。

 何故わざわざ、つばで泥を作り、目に塗り、洗いに行けと言われたのか。色々な理由を考えられますが、最も大事なのは、この日が安息日であったということ。つまり、イエス様は、当時の安息日にまつわる戒律をあえて破るようなことをされたのです。泥を練るというのは、当時の戒律主義者からすれば、労働であり、安息日にすべきではないこと。そのような規定が聖書に定められているわけではありません。人々が勝手に決まりを作り、自らを縛りあげていたわけです。つまり主イエスは、ここであえてつばきで泥を作り、目に塗ることを通して、当時の本来あるべき安息日の姿からかけ離れた状態に一石を投じたということです。(事実、後でこのことが問題となるのです。)

 

ところで、旧約聖書では、盲人の目が開かれること、耳が聞こえない者が聞こえるようになることは、救い主の到来のしるしと言われていました。この出来事は、イエスが救い主であることを示すものであり、神のわざが現れる出来事でした。

 更にいいますと、この九章の直前、八章の終わりでは、主イエスがご自身をまことの神であることを強く表明しているところです。

 

 ヨハネ8章58節

「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。』」

 

 この「わたしはいる」という表現は、ヨハネの福音書の中で繰り返し出てくる言葉で、重要な言葉。イエスが、まことの神であることを表明する大事な言葉。英語で言えば「I am」ですが、ギリシャ語で「エゴー・エイミー」。この「エゴー・エイミー」という言葉は、出エジプト記三章に出てくる、主なる神様が自分の名を名乗る場面。「わたしはある」と言われたのと、強い関係があるのが「エゴー・エイミー」です。

 イエス様は言葉においても、行いにおいても、ご自身、神であることを表明している。しかし、人々はそれを受け入れず、かえって石を投げつけようとしたというのが、八章の終わりでした。

 このような状況なので、この盲人の癒しも、その場ですぐではなく、「シロアムの池」へ行くようにと言われました。生まれつきの盲人でも行くことが出来る道のり。とはいえ、主イエスのことを全く信じていなければ、行かなかったはず。ですので、この男はイエス様を信頼して、シロアムまで行きました。期待を胸に、水を掬って目に当てる。おそらく、イエスと弟子たちと別に、彼だけがシロアムまで来たのです。

 生まれて初めて世界を見る。いったいどれほどの感動、喜びであったのか。ヨハネも、その場にいたわけではなく、実に慎ましく「見えるようになって、帰って行った。」とだけ記しています。この時の感動、喜びがどのようなものであったのか。天国で聞きたい証リストの上位に来るものでしょう。

 

 それはそれとして、このヨハネの九章において、本当に大事なのは、この後に続く出来事。この男がパリサイ人たちに問い詰められ、両親も引っ張り出され、その過程の中で、自分の目を開いた方が誰なのか、確信を得ていく姿。

この男は心の目も開かれ、キリストを信じる信仰も明確にされていく。片や、見えていると思っている宗教指導者たちの心の目は、全く見えていないというコントラストが展開します。実に面白いのですが、今日の説教では扱うことが出来ません。是非とも、続きはお読み頂くとして、今日は目が見えるようになった男が、人々の前に最初に現れた場面と、再度イエス・キリストに出会う場面に注目して終わりにします。

 

 ヨハネ9章8節~9節

「近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。『これはすわって物ごいをしていた人ではないか。ほかの人は、『これはその人だ。』と言い、またほかの人は、『そうではない。ただその人に似ているだけだ。』と言った。当人は、「私がその人です。』と言った。」

 

 もともと彼を知らない人からすれば、この人は普通の人。彼を以前から知っている人にとっては、驚くべき状況。困惑する場面。周りにいる人たちは、無責任に、ああでもない、こうでもないと言います。彼らは何も経験していないのです。しかし、生まれて初めて世界を見ているこの人には、大きな変化が起こっています。それは、肉体の目が見えるようになったというだけでなく(これだけでも十分に、神のわざがおこっていると言えるのですが)、それ以上に、彼の存在自体に大きな変化、神のわざが起こっていると読めるのです。

 彼は言いました。「私がその人です。」と。この言葉、「エゴー・エイミー」です。ギリシャ語で、八章から読み進めますと、八章でイエス様が繰り返し「エゴー・エイミー」と言い、自分が神であることを示される。そして、この九章九節で、それに呼応するかのように、この男が「エゴー・エイミー」と言ったような印象になるのです。

 

 この点についてある神学者が次のように言っています。「お前が盲人だった者かと問われて、彼は『エゴー・エイミー』と答えている。これは明らかにキリスト論的な文脈の中で、しかし、イエスではなく、癒された人が言った言葉。そうすると「エゴー・エイミー」という言葉は、ただ自分が神であることを宣言するための言葉ではないと言える。この「エゴー・エイミー」は自分の存在を確認し、神によって与えられた自分の命を自分のものとした者の言葉である。」

 つまり、人は人として、当たり前のように存在しているのではない。人は、造り主であり、救い主である神と出会って、人となる。という意味です。実に味わい深く、興味深い言葉。

自分が何者なのか分からない者が、イエス・キリストと出会って初めて、本当の自分を見出すことが出来る。初めて、本当の自分になっていく道が開かれていく。そのような神のわざが、この人に始まった。何のために生きているのか分からない。どのようい生きたら良いのか分からない。人生の闇の中に座っていた者が、世の光である救い主と出会って、本当の自分を見出す。本当の自分を見つける。イエス様との関係の中でこそ、私はこのような者だと言える。それこそが、神のなさるわざということです。

 

 この本当の自分を見出すということは、具体的にはどのような生き方になるのか。再度イエスに出会い、信仰を告白する場面に明確に出てきます。

 ヨハネ9章35節~38節

「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。『あなたは人の子を信じますか。』その人は答えた。『主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。』イエスは彼に言われた。『あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。』彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した。」

 

 本当の自分を見出した者。新しい人生、新しいアイデンティティを見出した者が何をするのか。主イエスを拝したのです。礼拝者の歩みが始まったのです。

キリストに出会う、主イエスを信じるとは、どのような意味があるのか。キリストの贖いの御業は、私たちをどのように変えるのか。この人の姿から教えられることは、礼拝者となること。礼拝者として生きることです。

 

 以上、ヨハネ九章より、ある人がキリストに出会う場面を見てきました。私たちは、二千年前に、生まれつき盲目の男に対してなされた神のわざが、イエス・キリストを信じる全ての者にもたらされると信じます。自分の中で始まっている神のわざを認め、自分は何者なのか、自分はどのように生きるべきなのか。造り主、救い主との関係で、見定めていきたいと思います。

 皆様は礼拝を喜んでいるでしょうか。楽しみにしているでしょうか。礼拝者として生きることがアイデンティティとなっているでしょうか。礼拝者であることが、最も大事なことでしょうか。

 私自身のことを言いますと、母のお腹の中にいる時から礼拝に出席しました。自分のこととしてキリストを信じてから二十数年。牧師になり教会に仕えるようになってから十年。礼拝への思いが少しずつ変えられてきました。

 これまでの礼拝についての信仰生活を振り返りますと、頭では礼拝が大事と分かっても、心では上の空。積極的に礼拝するというより、義務的に感じていることもしばしばありました。個人的に説教を聞くのは好きでしたので、説教の時間は良い。しかし、それ以外の時間は早く過ぎないかと思う。日によって、思いがバラバラ。積極的に礼拝に出たいと思う時もあれば、そうでない時もある。

 しかし、少しずつ変えられていき、一週間の中で日曜日が楽しみになりました。愛するあの人、この人と顔を合わせて、神様を賛美する。招詞、交読文、聖書朗読、説教を通して、神様は私に何を語られるのか味わう。それが心からの喜びとなってきました。礼拝が喜びであると感じるまで、時間がかかりましたが、キリストの恵みによって、ここまで変えられたことを大変感謝しています。

それと同時に、今の私もまだまだ礼拝者として未熟者であると理解しています。これまでお会いした先輩クリスチャンの中に、比べものにならない程、礼拝を大切にしている人、喜びとしている人がいました。四日市キリスト教会にも、お手本にしたい礼拝者が多くいます。まだまだ、これから。今よりもっと、礼拝を愛する者へと変えられる。

 キリストを信じる者は、確かに変えられる。キリストの贖いの恵みは、私を礼拝者というあるべき姿へと変えて下さる。そのように、神の業が私たちの人生にも現れることを期待し、祈りつつ、この一年の歩みを送りたいと思います。

2016年1月1日金曜日

元旦礼拝 詩篇16篇1~11節「いつも私は目の前に主を」


皆様明けましておめでとうございます。2015年が終わり2016年が今日から始まるわけですが、2015年の世相を漢字一文字で表すと何であったか。人々が何を選んだのか。皆様はご存知でしょうか。当初の予想では景気上昇を期待する人あるいは逆に物価上昇を心配する人が多く「上」がトップ。政治から自然災害まで思わぬ事態が起こる年かもしれないと考えた人々もいて「乱」が二位だったそうです。結局年末に行われた公募で最も多くの人が今年の漢字として挙げたのは「安」の一文字でした。

昨年は安保関連法案が審議され採決に国民の関心が高まったことや、世界で頻発するテロ事件や異常気象など人々を不安にさせた年であったこと、芸人・とにかく明るい安村の「安心してください穿いてますよ」のフレーズが流行したこと等が主な理由だそうです。皆様はどう思われるでしょうか。

ところで世界世相の一年を振り返ることも大切ですが、これからの一年を自分がどの様に歩んでゆきたいか。それを考えることはより大切と思われます。2016年皆様の願い、この様に歩んで行きたいと言う思い、テーマを漢字一文字で表すとしたら、それは何でしょうか。もし、既に考えたと言う人がいましたら、是非後で教えて頂きたいと思います。

私は神様との交わり、人々との交わりを喜びとしてゆきたい、その為に時間を取ることに取り組みたいと願い「喜」を今年の一文字として選びました。その様な訳で、今日選んだ詩篇16篇は詩人が神様との交わり、兄弟姉妹との交わりを喜び歌う詩篇となっています。

最初に出てくる「ダビデのミクタム」のダビデは詩の作者です。ミクタムは贖いの詩篇とか黄金の詩篇等様々な説があります。詩篇は元々讃美歌でしたから歌の種類かリズムを表わすと推測されていますが定説はなく、ミクタムとそのままのことばが載せられています。

 

16:1、2「神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」」

 

詩人は神様のことを1節では神と呼び、2節では主と呼び代えています。神はこの世界を創造したお方の力強さ、全能を表わし、主は私たち人間に対しどこまでも真実で、いつくしみ深い神様の姿を示すと言われます。力強さといつくしみ深さを兼ね備えた主なる神様に「私を守って欲しい」と願い、「あなたに身を避けます」と語り、「私の幸いはあなたの他にありません」と信頼するダビデの姿が目に浮かびます。

しかし、ちょっと待てよという気がします。これがイスラエル史上最強の兵士にして最高の王と言われたダビデのことばであると考えると意外な気がします。普通王が身を避けるのは神ではなく、自分が築いた王宮か砦でしょう。「私の幸いは主にある」ではなく「私の幸いは私の富にある」と言うのが本音ではないでしょうか。

それをダビデは、幼子が力強いお父さんに守ってもらい安心する様に、慈しみ深いお母さんの胸に抱かれて幸せである様に、ただ無心に神様を信頼しているのです。

この世では最強の戦士も神様の前ではひとりの無力な幼子となる。この世では栄華を極めた王も何も持たない幼子の如く神様に頼り切る。神と言えば困った時の神頼みとか、一年に一度初詣に出かけ、健康も商売繁盛も大学合格も全部まとめてお願いするご利益宗教とは全く違う人と神との人格的な関係、交わりがここには展開しています。

また、ここには「幼子のようにならなければ、誰も神の国に入ることはできません」と言われたイエス様のことばも響いてきます。この世では大人が幼子の模範です。しかし、信仰の世界では幼子が大人の模範と言うことです。社会的な肩書やプライド、財産や能力が邪魔をし神様に身も心も任せ切ることが苦手なのが大人と言う生き物でした。 

そんな私たちにとって、このダビデの姿は何を物語っているのでしょうか。私たちも後生大事に守っている肩書やプライド、しがみついている財産や能力を手放し、ひとりの幼子になって神様の前に出る。そんな交わりを持つことの大切さを教えられる気がします。しかし、ダビデが喜んでいたのは神様との交わりだけではありません。兄弟姉妹との交わりも大きな喜びであったのです。

 

16:3「地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。」

 

このことばにも驚かされます。兵士としての戦闘力、王としての統率力、詩人としての表現力。様々な点で人よりも秀で、一目置かれていたダビデが自分の周りにいる人々のことを尊敬すべき人、素晴らしい人、誇りとすべき人とほめたたえているからです。私の喜びは全て兄弟姉妹との交わりの中にあると言い切っているからです。

私たちが持つ罪の一つの現われは高慢です。高慢とは周りの人を低く見、己を高くすることです。一人孤立して交わりを軽視し、遠ざかることです。

しかし、ダビデは謙遜な人でした。様々な能力、王としての地位、豊かな経済力、それらすべてを何ひとつ良いものを受け取るに価しない自分の様な者に神様が与えてくださった贈り物と心から認めていました。そして、自分が神様の前に無力無価値な存在であることを認める謙遜な人の眼には、周りの人々の美点、長所が良く分かるのです。

 

ピリピ2:3「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」

 

もし、周りに置かれた兄弟姉妹が尊敬すべき人、素晴らしい人、自分より優れた人と思えないとしたら、それは相手の問題ではなく、自分中心に人を見ることしかできない私たちの高慢に問題ありと聖書は教えているのです。

ある婦人がご主人に酷いことを言われたと言って、相談に来られました。と言うより怒りをぶつけに来られたと言う感じでした。「何と言われたんですか」と尋ねると「お前は最低レベルの妻だ」と言われたそうです。確かに酷いことばです。怒りを感じて当然でしょう。

そこで私が「奥さんのことを最低レベルと言うご主人の方こそ、最低レベルの夫かもしれませんね」と言いましたら、その婦人は私に向かって怒り始めました。「私の主人を最低レベルとは言いすぎです。主人にはこんな良い所も、こんな優しい所もあるんです」と反論してきました。それで私は「よく分かりました。あなたは本当に素晴らしい男性と結婚したことがよく分かりました。それを是非ご主人に伝えてあげてください」と助言したんです。

人に対して批判的な状態にある時、私たちの心は往々にして自己中心状態にあります。そんな時私たちの眼には人の弱点、欠点しか眼に入ません。ですからその様な時こそ、心落ち着けて相手の美点、長所を見てそれを伝えることにつとめる。その様な努力が交わりを深めるためには必要と教えられるところです。

次にその様な喜びを持っている自分に比べるとと、ダビデは他の神を頼り生き甲斐とする人々の悲惨な生活を思い遣ります。他の神は聖書では偶像とも呼ばれていました。

 

16:4「ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。」

 

真の神を離れて生きる人の心には他の神偶像があると、聖書は教えています。木や石の像は拝んでいないかもしれませんが快楽を生きがいとする人、お金や物質的豊かさを頼りとする人、社会的地位や名声を求めてやまない人は大勢います。そして、それらを生きがいとし、頼りとする時、私たちの人生はそれらの物に縛られ、支配されてしまうのです。

ここに「彼らの注ぐ血の酒」とあります。恐らく古代この地方で拝まれていたモレクと言う神から御利益を得るために行われていた人身御供の風習を指していると考えられます。

一体何故そんなことまでしてと思われるかもしれませんが、現代でも地位を守るために違法行為をする会社役員、お金に縛られて犯罪を犯す人、ゲームの快楽に支配され本来の仕事や学びができない若者等がいるのではないでしょうか。

主なる神以外のもので心満たそうたとしても満たされず、かえってそれらに縛られ支配される悲惨な人生を送る人は今もいるのです。それに対して、神様を信頼し神様と交わる人は何と自由で幸いなことかと詩人は歌います。

 

16:5、6「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」

 

譲りの地所とは相続地を、杯は渇きを癒す飲み物を指します。そして、測り綱は土地の広さをはかり、境を決めるために使われた道具でした。

この告白も、ダビデがいかに主を喜び尊び、身近な存在と感じていたかが伺われます。富と権力を持つ王ダビデが主ご自身を相続し、その愛によって心の渇きを癒されたことに感謝しています。主が自分のために測り、与えてくださった土地が素晴らしいと満足しているのです。母国イスラエルの自然、文化、人々を神様からの恵みとして愛し喜ぶダビデの姿が目に浮かぶようです。

さらに、人々とともに働き、語り、過ごす昼間が終わり夜になると、今度は神様と一対一、聖書を通して大切な助言アドバイスを与えてくださる神様との交わりを楽しむのです。

 

16:7「私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。」

 

こうして昼も夜も、いつも神様とともに生きる生活をダビデはこう言い表わします。

 

16:8「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」

 

心から信頼できる力強い神、慈しみ深い主が私の右に、私とともにおられるので、私は揺るぐことがない。私たちの心は財産の多少、他人のことばや態度、様々な出来事によって揺れ動きます。左右上下に揺れるのです。

しかし、ダビデは「私は揺るぐことがない」と告白しました。財産の多少、人のことばや態度に左右されず、苦しみや困難に直面しても大きく揺れることなく、みこころに従い続け心を、神様との親しい交わりの中で恵まれたと語っているのです。努力や修行によってではなく、あくまでも神様のおかげと言い切るところが印象的でした。

しかし、神様が与えてくださる揺るがない心は、岩や鉄のように固く血の通わない冷たい心ではありません。神様が創造したもの、神様が与えてくださるものを喜び楽しむ、自由で柔らかな心でもあります。しかも、その喜びはこの地上で終わりではなく、死後も永遠に続くと歌われています。

 

16:9~11「それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」

 

死は昔も今も人間にとって恐れの対象でした。昔イスラエルの人々も死者の世界をよみと呼びそこに行くことを恐れたのです。しかし、ダビデは違いました。彼は自分の魂をよみに捨て置かず、墓の中からよみがえらせることのできる神様を知っていたのです。

ここは旧約聖書が復活について教えている数少ない箇所の一つでした。イエス様の弟子ペテロもこのことばを用いて、イエス・キリストの復活が事実であり、神様のわざであること、キリストを信じる者も同じく死後復活することを人々に説明しています。それはともかく、ダビデの思いは死をも越えて永遠に進み、私たちが心から満ち足り楽しむ世界を描いて結ばれていました。

これを読むと神様を信じる人の歩みは順風満帆。苦しみとは無縁であるのは喜びのみと思われるかもしれません。しかし、実際のダビデの生涯は宿敵ペリシテとの命を懸けた戦い、義理の父サウルに妬まれ迫害される苦しみ、王になって油断した時に犯した姦淫の罪に対する悩み、息子に裏切られ国を追われる辛さ等決して順調ではありませんでした。むしろ緊張、苦難、心の痛み、悲しみの連続でした。そうした思いはこの詩篇でも告白され、歌われています。

しかし、その様な中に今日の詩篇をおいて見る時、ダビデが決して順調なことばかりではなかったその人生を歩み通すことができたのは、決して奪い去られることのない喜びを持っていたからと教えられるのです。それは神様との交わり、他人との交わりでした。

ダビデほどではないかもしれませんが、私たちの人生も決して順調な時ばかりではないと思います。緊張、苦難、痛み悲しみの谷に落ちることもあるでしょう。しかし、そうであるからこそ神様との親しい交わり、兄弟姉妹との親しい交わりを避け所としたいと思うのです。 本来幼子のように何の力もない私たちが神様を喜び、神様が与えてくださった恵みを喜ぶ交わりを大切にしてゆきたいと思います。私たち皆が昼も夜も、教会でも職場でも、人々といる時もひとりの時も「いつも私の前に主を置くこと」。いつも主が自分の右にそばにおられることを覚えて考え、語り、行動することができる様に。交わりを喜ぶ一年の歩みを実践できたらと願います。

 

16:8「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」